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ここの処何十年ぶりかで読み返しているのが、高橋和己の評論集やエッセーの類です。 正直言って彼の小説と言えば、出来不出来以前の読むに値しないほど退屈で冗長なモノか、逆に個人的な思い入れが余りに多すぎて素直に楽しめないようなモノのどちらかで、いまだにすんなりとは手にとることが出来なかったりします。そう、もう一度読んでみようとしていつまでも果せずにいる「作家」と「作品」が僕にはとても多いようです。勿論、ただ怠惰なだけと言う噂もありますが・・・ それに比べると、高橋和己の書く「文学論」や「政治論」は、初めて読んだときからあのごつごつとして無骨で難解な文体が何故か僕自身の生理にピタリとはまる部分がありました。ハリネズミやセンザンコウのように鋭い針や厚い外皮を持つ小動物達も、そっと裏返すと柔らかな腹部をひた隠しにしているように、彼の硬直した漢語調の文体の陰には、支離滅裂でとりとめのない妄想に浸ることが多かった高橋和己自身が見えかくれしています。そんな自己の弱さや愚かしさに呻吟する彼の息づかいまでもが感じられて、当時の僕には切実なまでに心地よかったのかもしれません。ひょっとすると、ポルノグラフィよりも彼の文章読むほうが己の「劣情」を刺激させられていたような気さえします。 で、深夜に降る雨音などを聞きながら、もう一度読み返してみるのは・・・彼の説く戦後作家論や知識人論に登場するさまざまな顔ぶれ。「埴谷雄高」「武田泰淳」「椎名麟三」「野間宏」・・・あるいは「魯迅」「ロープシン」 ただし、それら高橋和己が数十年前に熱く語った作家達は他ならぬ当人を含めて全てが物故しており、そのことで二重に感傷的な気分を文章の端々から読みとっているだけだけなのかもしれません。 最近は「高橋和己」と言っても以前のように妙な具合に中途半端に笑われるようなこともなくて、ただただ「それって誰?」と云う顔されるので、逆にもう一度読み返す気になっているのかも知れません。彼の文章が再び脚光を浴びるような時代はもう来ることはあり得ないのでしょう。
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