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雨が降ると思い出す「ひと」がいます。 雨の季節に知合ったのか、それとも雨の降る夜、路地裏でずぶぬれになりながら抱きしめた「あの夜」の記憶のせいなのか・・・もはや今となってはひからびた断片でしかないモノには大した意味などないのでしょう。ただ、降る雨の記憶だけが鮮明です。 バスを降りると、何時ものように手にした傘はささずに、停留所前の店と店との間の狭いひさしの下でずぶ濡れになりながら隠れるように立っている彼女がいた。朝からどしゃぶりで、傘を持って出かけているから今日は迎えに来なくていいよと言っておいても、彼女は何時もバス停で今日のように肩口からぐっしょり濡れて僕を待っていた。赤い傘と黒い傘を子供のように両腕に抱えて立つ姿をバスの中からすでに見ていた僕は、一瞬降車ランプを押すことをためらう。今日の彼女の様子はどうだろうかと、僕の心の片隅でいつもゆらめいている恐れともためらいともつかないモノが僕を一瞬躊躇させ、その事に自分自身がうろたえていた。慌ててボタンを押そうとしたときには、すでに誰かが押してしまった後だった。何か取返しのつかない事をしてしまったような気がして、僕は赤く光るボタンをもう一度指でなぞってみた。 「ただいま」 バスを降りた僕を無言で見返した彼女の瞳には何時になく不安な色が滲んでいるような気がして、僕はもう一度胸の奥がヒヤリとした。 「帰りたい」 決して何処へとは言わない彼女のいつもの口癖が、今夜は特に僕にはこたえた。彼女が帰りたいと望むのは・・・濡れた板壁を伝って落ちる雨もりのシミが天井に拡がるあの暗くうす汚れたアパートではなく、かつて彼女の裡にあった、庇護され愛されていた時間と場所への記憶だとするなら、それに答えるすべが僕にはなかった。 何も答えることの出来ぬまま、少しづつ路地の奥へ奥へと後ずさりする彼女を抱きしめながら、僕自身もいずこともしれぬ処へ帰りたいと、愚かにも願っていたのかもしれません。 昨日の眩しい日差しからは一転して、肌寒い雨が時折降るこんな日は、不意におかしな妄想が湧いてきたりします。あり得ざる記憶とあり得べき記憶がない混ぜになって、僕自身にも定かではありません。時折こんな夜もあるようです。
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