歳時記:弥生の項

一日

朝、昨日作った答案(違)の答えあわせ。結論からいえば多少の進歩あり。ただ、正常を異常と判定してしまうオーバーリーディング(読み過ぎ)が少なからず見られた。
初めは何も気付かず、その後は気付いて悩み、それを超えて、自信を持って正常と言い切れる実力がつく、といいのだけれど。

夜、他の先生の受け持ち患者でひどい側弯症がある患者さんのことを聞いたので、X線を見てみる。‥‥‥第一感、もっと早くなんとかならなかったのかと思った。
子供の頃から指摘は受けていたけれども、治療を受けていなかったとのこと。「もう少し前ならいろいろ手が打てたけれど、ここまで来てしまうと、専門の先生にやってもらわないと....」との話を聞きながら、予防の難しさを思った。
親が忙しくて病院に連れていけなかったらしい。すぐに命に関わるというわけではないだけに軽く見られたのだろうけれども。

二日

ふとしたことから小児科の研修医の先生と名前の話になる。同姓同名で同じ病気、なんて患者さんがいて大変という話から、どんな名前をつけたいだの最近の子供の名前の傾向だの。「しょうのすけ」なんて名前の子がいるよ、なんて話を「あ、わたしの受け持ちにもいます。89歳だったかな」と受けてみたり。
芸能人の名前や有名人の名前をとるのもいいけれど、後でその人が不祥事を起こしたりすると迷惑だよね、なんて話もした。最近ではさしずめ宗男くんだろうか。(^^; 昔は角栄くんなんていう例もあったらしい。

三日

親父の一番長い日。
下の妹の結婚式の日。というわけで、朝から着慣れない礼服なんぞに身を包んで、車椅子を押しつつ都内へ向かう。結局この日は病院に一歩も足を踏み入れず、そんな日は正月以来だろうか。(爆死)
まずは東京駅へ。岩手から上京してくる祖母と叔父を出迎え。卸し先を訪ねてくるという叔父と別れて、祖母をタクシーにのせて原宿へと向かった。
東北新幹線のホームから車椅子用のエレベーターを下ると、JRの職員らしき人々が歩き回る廊下に出る。天井の低い通路を案内されたのだが、途中かられんが造りの通路になった。
「ここ、東京駅の駅舎ですか?」
「そうです。」とのこと。つまり、丸の内側のれんが造りの駅舎の基部のあたりの通路らしい。雰囲気をさらに盛り上げるためか(何のために?)ガス灯を模したような照明がついており、なんだか気分はタイムスリップ。外に出ると切符をはさみで切っていたり、蒸気機関車が走っていそうな気すら、した。

会場に到着しても時間は十分に余っている。母上からは粗相のないようにきっちり接待するように(笑)申しつかっている。でも、原宿で年寄り向きの店をさっと見つけるなんて芸当はわたしにできるわけもなく。適当なビルの中の喫茶店でピラフなど食べてお昼御飯。
その店を選んだわけはすいていたからだったのだけれど、おばちゃんが親切に対応してくれてありがたかった。

最初のイベントは写真撮影。結婚式場となる教会にいくと、先行している妹夫婦の晴れ姿の撮影会。「お綺麗な花嫁さんで、写真撮影がいつもより長引いてますわねぇ」などという教会の人の言葉は絶対妹には聞かせられないなと話し合ったりする。もちろん、調子に乗るからである。(^^;;)
その後、親族一同の集合写真。結婚式というのは花嫁がメインで後は添え物だなぁと感じた。(^^; 誰よりもやはりまず花嫁のポーズが決まっているかどうかに注意が払われていた気がする。
式自体は滞りなく。かくして"世界で一番新しい夫婦"(C)神父さん が誕生した。

二人に向けての説教の中で、神父さんがこんなことをいっていた。「聖書に曰く、愛とはまず寛容です。そして、親切です。そして、礼儀正しくなければなりません」なかなか面白い表現だなぁ、と聞いていたのだけれど、そういわれてふと思い出したのは、アメリカのこと。
他国の国内の問題について、親切ごかしにあれこれ口を出すアメリカ流は、礼儀正しさとは無縁のものではないだろうか──結婚式のさなかにまったく無縁なことを考えていた。

式が終わったところで披露宴に向かう。後で聞いた話だが、当日の準備は新婦の姉であるもう一人の妹と彼女の彼氏が担当し、事前の準備も新郎新婦と妹がほとんど仕切って、いろいろ作るのに親と友人一人をかり出し、当日の係として数人の友人の手を借りただけだそうだ。‥‥‥友人たち主催の「結婚を祝う会」形式に慣れきっていたわたしには奇異にも感じられたのだけれど、そんなものなんでしょうか>準備
ともあれ宴会が始まる。わたしは親族席で一通り食べたあと、写真をぱちぱちとっていた。あんまりいろいろ企画のないパーティーではあったのだけれど、まぁそれはそれでよいか。
盛り上がったのは新郎新婦が一度中座し、お色直しをして再入場した時。新婦はワンピース姿に着替えていたけれども、新郎はスーツに白いエプロンをつけ、背中にビールサーバー(御丁寧にリュックサック様に背負いひも付き)を背負って登場、各テーブルにビールを注いで回った。なんでもこの会場ではキャンドルサービス禁止なのだそうだが....思い付いた奴はいったいどんな奴だか。
人に注ぎつつ自分も飲んだりしていた新郎は閉会と同時に酔いつぶれ、酒の飲めない新婦が閉会後の会場の片づけを仕切って最後に会場スタッフへの挨拶を済ませ、各種荷物と一緒に新郎を車に積み(笑)、宿泊先の高級ホテルへと向かっていった。‥‥‥新郎の未来の明るいことを祈ろう。(^^;
結局最後まで片づけを手伝っていたわたしと妹、妹の彼氏は三人で電車で帰った。‥‥‥はふ、長い日であった。

五日

夜、病院を移られる先生の送別会。お世話になった、というほどでもないけれども、いろいろとお話させてもらった先生なので参加する。
一次会で飲んだあと、二次会はカラオケ。あれこれと歌って終わりは一時を回っていた。
最後でわたしが「Hallelujah!」(ヘンデル・オラトリオ"メサイア"より)を歌ったらバカ受け。あとあとまで言われるはめになりそうな感じ。

六日

もーちょっとで呼吸器科も終わり。なのに受け持ちが増える。曰く「研修医向き」な患者さんであるため。
稀な病気の患者さん、診断がはっきりついていない患者さん、複雑な病態が組み合わさっている患者さんなどは「研修医向き」などといわれる。きちんと勉強しなければ取り組めないからでもあるし、貴重な経験になるからでもある。もっとも、指名を受けた方にしてみれば苦労をするということでもある。
難病の指定を受けているような病気だけれど、その理由は治療が難しいということだけでなく、寛解・増悪を繰り返して長く通院を続け、入退院を繰り返すからでもある。当然安定した収入は難しくなるし、病気が進行すれば介護の問題が出てくるような病気もある。そういった社会的問題についても目を向ける必要がある。‥‥‥頭痛い。

八日

一応、呼吸器科最後の仕事、ということになるだろうか。
幾人かの患者さんは引き続き腎臓科でも担当する。(別に腎臓の病気があるというわけでなくても、退院まで担当するということ)。もちろん、一昨日受け持った人も。
他の先生に変わってもらう人については挨拶をした。
あとは終わっていない仕事について片づけを。具体的には退院患者さんの要約やら引き継ぎやら。ま、一つの区切りというわけだろうか。

夜は病棟の飲み会。歓送迎会だった。

九日

のんびり起きて.....実家へ。妹の彼氏(先日結婚したのとは別の妹である)の親が上京して御挨拶にきている、ということで、お前も顔を出せと呼び出された次第。
お茶など飲みながら世間話、というかそれが主な目的になっているわけで。向こうのおかーさまとこちらのおかーさまがメインになって喋っていた気がする。こういうやや堅苦しめの場で自然に喋るという能力において、男性はどうも見劣りする気がする。堅苦しく進めるのならば得意なのだが。
お茶会が終わったあと、実家を出てバイク屋へ。懸案となっていたバイク購入の契約に。HONDAのCB400SSを注文する。在庫があるということで「月曜日には届きますよ」と言われたが。
「いや、仕事忙しくて、平日に取りに来れるとは思えないんですよね。来週末は都合で取りにこられないですし」
「なに言ってるんですか、届いたって連絡が来たら早く乗りたくて仕方がなくなりますから。」
‥‥‥鋭い、かもしれない。

昼過ぎから病院に出向く。本日当直で、そのまま病院に泊まる。久しぶりにほとんど寝られない当直で、始まる前に少し寝ておいてよかったよかった。

十日

当直業務終了後、患者さんに会ってから帰宅。当直明けに延々と仕事をしないでよいぶん土曜・日曜・祝日の前日の当直は好きなのだけれど、人によってはせっかくの休みが潰れてしまうので嫌い、という人もいる。日中仕事をして夜は寝るというリズムを崩さなくて済むので休日の日直もわたしは好ましく思っているのだが、何もできないということでやはり嫌う先生もいる。人の考えはそれぞれ、ということだろうか。

ほんの少し仮眠したあと、原宿へ。先日出向いた際にセブンイレブンで落とし物をしてしまって、保管してくれているということで受け取りに出向いた。
ふらっと都内へ出るのは久しぶりということで、受け取りを済ませたあと少々ぶらつく。新宿へ出て書店を廻り、出てきた時には「ソコツネ・ポルカ」(わかつきめぐみ/JETS COMICS)「ここほれONE-ONE 2」(小川一水スーパーダッシュ文庫)「ビートのディシプリン side1」(上遠野浩平/電撃文庫)「アリソン」(時雨沢恵一/電撃文庫)を抱えていた。
夜は家族と一緒に焼肉屋。かなり繁昌していましたが.....BSE騒動はもう下火になってきたのでしょうかねぇ?

十一日

本日より腎臓科研修開始。
この科のメインは人工透析と、それに付随して体液バランス・電解質バランスの管理ということになる。自分が今もっとも苦手意識を抱いていることであるだけに、がむばりたいところ。
最初の患者さんは90歳で浮腫・呼吸苦ということで来られた方。場合によっては人工透析も....ということなのですが....。諸外国ではまず適応にならないでしょうな。お金のかかる透析医療を、この年令の人にやる意義とは何か、という話になりそうである。
年令や社会的肩書きで人を評価することは好ましいわけではないけれど、そういう議論もけして無駄なものではないとは思う。当面すぐに透析を始めなければならないほどではないから、じっくり考えていきたいところ。

十二日

小話を一つ。
腹部の超音波検査をちょっとやっておこうと思い立って、ICUにおいてあるポータブルの超音波の機械を借りにいった。見当たらないなときょろきょろしていると、看護婦さんが「エコーは外科の先生が持っていきましたよ」と一言。
一言もいわないのに、わたしの考えが読めてしまうとは、もしやテレパス?と思ったのは本当だ。(ちなみに、これはきっと赤い糸でつながっているからに違いないなどとは考えなかった)

十三日

午前中でざっと受け持ち患者さんを回ってしまう。今度から午後は救急当番だ。
で、その救急当番は比較的平穏に。入院が一件あって、受け持ちになったくらいだろうか。

で、夜、バイク屋にバイクを引き取りにいく。CB400SS。勘定を済ませて、まずはエンジンのかけ方を教わる。(笑) なにせ、いまどき珍しいキック式のみということで、下手をするとエンジンすらかけられずに終わる可能性を秘めている。苦労しつつもなんとかかけられるようになって乗り出した。
早速交差点で一回エンストをかましたが(苦笑)、一年乗っていなかったブランクはそれほどなさそう。もともとのレベルがあまりに低いという話はおいておいて。
いろいろと楽しみたくはあるのだが.....なにせ、暇がない。(爆) 通勤に使おうかなぁと思案中。

十四日

‥‥‥そういえばホワイトデーだった、と気がついたのは、朝出勤する途中だった。(核爆)

そうした行事とはまったく関係なく仕事は進む。今日もひとり入院が入る。あるかなしかのレベルの肺炎。抗生物質でよくなったらすぐ退院でいいかなぁ、のレベルの人。考えることは余りないけれど、最近あまりいろいろ頭を悩ませる人がいないのは少しだけ寂しかったりするのは内緒だ。
午後は透析用の内シャント造設手術の見学に入る。人工透析を導入される人は、透析のために大量の血液を出し入れしやすいように、シャントと呼ばれる血管短絡路をつくり、そこに血液が大量に流れるようにしておく。手術としては小さいものに入るのだけれど。「ぢゃ、先生次からは助手ね☆」と言われてもねぇ.....。

十七日

流行りのうた、「愛のうた」(Strowberry flower)を耳にしながら、ふと考えた。
「"愛して"なんて言わないよ」と歌ってはいるけれど....そういっている本人は、実のところ愛して欲しいと願っているのだろうか?
言わないけれども、この気持ちが伝わればいいなというような歌に聞こえてきたのだけれど、どうだろうか?

十八日

風邪を引く。朝起きるのも少々辛かったけれども、きっちり出勤。
でも、受け持ち患者さんには免疫抑制剤を使用している患者さんがいたり....。マスクをつけ、できるだけそういう患者さんとは話をしないように(爆)気を使いながら診てまわる。
健康管理には気をつけないとね。

十九日

風邪はじっくり寝たら少しよくなった。

夜、病院関連の研修委員会に出席するため都内へ出る。座れたものでつい寝てしまったら、乗換駅を過ごしてしまったりもしたが(爆死)。
医師の卒後研修の問題ってなかなかやっかいで、大学を所管する文部科学省と医療を所管する厚生労働省とでは思惑が違ったりする。そのくせ、その双方が関係者だったりするからよけい厄介。んで、その両方がかならずしも国民のための医療ってやつを本気で考えているとは思えないフシがあったりする。
さらに事態をややこしくするのは、いろいろな制度を作ろうとすると金がかかるということ。医師の卒後研修について国があれこれ口を出すのは悪いどころか当然のことだと思うが、金は出さない・口は出すというわけにはいかない。まして、大学病院の研修医の一部には、生活保護の対象になってしまうような収入しかない人が確実にいて、暮らしのために例えば眼科の研修医が内科の当直をしているような現状がある。
それを何とかするためには国が金を出す(例えば司法修習生のように)必要があるはずなのだが....そうは問屋ならぬ財務省がおろさなかったりする。かくして議論は続き、2004年と設定されたタイムリミットだけが近付いてくる。

二十日

ひとり患者を受け持つ。合計10人に達したのは最高記録。そうなるとある意味一人一人の患者さんをじっくり診ていくことはできなくなってきて、要所要所をおさえながら、ある程度は看護婦さんなどからの間接的な情報をもとに診ていくしかなくなってくる。
これで急変しかねない患者がいたりすると、その人のところに張り付きに近くなってしまって、他の患者さんを見る余裕がなくなったりするのだけれど、比較的安定しているので何とかなっている。
最低でも一日に一回は患者さんの顔を見ようとは思っているのだけれど。

二十一日

春分の日。そして、三千回目のさだまさしコンサートが執り行われていた日。けれども日直のため、仕事。(しくしく) 裏で行われていたまさしんぐリストのミーティングに行きたかったのだけれどなぁ。
日直自体はこともなく過ぎ、その間に明日に迫ったケースカンファレンスの準備をしていた。以前にもちょっとやったけれど、今回の方が緊張している。前回はいわば"お稽古"今回は"発表"という感じだろうか。

「アリソン」(時雨沢恵一)読了。元気のいい女の子アリソンと彼女をフォローする男の子ウィル、二人が"宝"を見つける話。
ライトノベルでは男が女を振り回す話は「空みて歩こう」(冴木忍/スニーカー文庫)くらいしか知らないのだけれど、なぜなのだろうか。話のつくり自体は比較的オーソドックスな感じなのだけれど、見つける宝がかなり意外。読み通してから再度読み直すと、ちゃんと伏線もあって興味深い。
敵対する二国を融和させる宝なら、現代の地球にも欲しいなどと思ってしまった。

二十二日

ケースカンファレンス。お題は「Wegener肉芽腫症の一例」
一応がんばってまとめたので、終わってホッと一息。医学生さんが見学に来ていて、感想として「一年目の研修医の先生がきちんと発表していてすごい」みたいなことを言っていた、と伝え聞いて嬉しくなった。
終わってから腎臓科のボスで当院の教育担当責任者である副院長先生と焼肉を食べに行く。学び、発表することと患者さんのための医療をすることのつながりについて語ってくださって、とても面白かった。
発表するために診療しているわけではないけれど、医学界に身を置くものとして、経験を他の人々と共有し、次の発展につなげていくことは責務なのだろうと思う。

二十三日

午後、医局のボウリング大会。少々準備不足ではあったけれども、比較的スコアも伸びて楽しく過ごした。

夜、ふと振仰ぐと道に屋根を作るように桜の枝が伸びていた。
そう、やっぱり夜桜はふと出会うものに限る。

二十四日

昨日、さだまさしのニューアルバム「夢百合草〜ありすとろめりあ〜」を買ってきた。まず歌詞を読む。その中では「非因果的連結」「瑠璃光」「小さな手」がお気に入り。
さて、じっくり聞き込みましょうか。

二十五日

夜、当直。
最近は日中に大体の仕事を終えてしまえるので、当直の時にはできるだけ寝ることにしている。いつ患者さんの急変があったり、重症が入院してかかりきりになるか知れたものではないから。
この日はぱらぱらと呼ばれて、それぞれはさほど手のかかるものではなかったものの、まとまって寝られなかったというちょっと消化不良な感じの夜。
医者の能力をあげるための重要なファクターの一つは経験値だから、いろいろな経験をしていいと思うけれど、決まりきった対応で消耗する当直というのも、あまりやっていて楽しいものではない。

二十六日

小話。
当直明けの朝、早くから患者をみてまわる。途中で入院中の当院職員に会う。
病院で仕事をしているとはいえ、自分が健康を害して入院し、検査を受けたりなんだりするというのは違う経験である。「患者さんの気持ちが少し分かった気がしました」と言っていた。
飲み物をたくさん飲んでいるので「何飲んでいるの?」と聞くとニフレック、とのお答え。大腸内視鏡検査用の下剤で、2lほども飲まないといけない。
夜勤の看護師さんと「どんな味がするんだろうねぇ」と話になったのだけれど。「ぢゃ、受けてみればいいじゃない。なんなら依頼しとくよ(笑)」と言ったらば。「いやぁ、やめときますよ。クセになりそうだから
‥‥‥なにも言うまい。

午前中ばらばらと仕事を片付けて、午後に病院の患者会の会合に参加。今回はちょっとまじめに「ボケについて」のお勉強会。「ボケないために」どんな生き方がいいのだろうかという話だった。
「ボケは脳の廃用性萎縮」というフレーズになるほどと思った。使わないものはやがて機能を縮小していく。脳もいろいろと使わなければやがて機能が低下してくるのだ。一生頭を使い続けるためには、それなりの趣味があったほうがいいし、一生続けられる仕事が必要だろうと思う。

二十七日

夜、臨床薬理勉強会。今回のお題はペインコントロール。
ペインコントロールにもいろいろあるのだが、一番有名なのは癌の疼痛コントロールだろう。ちょっと前までは癌は苦しみながら死ぬ病気であったし、家族や医療者はその苦しみを取り除いてあげられないことに無力感を覚えるという、そういう状況だった。
現在では悪性腫瘍などの苦痛緩和にはモルヒネなどの麻薬の使用が積極的に勧められている。副作用の眠気や吐き気などについてもある程度薬でコントロール可能なところまで来ている。
患者さんや家族の方には麻薬を使うことに対しての拒否感を抱く人もいるが、その理由の少なくない部分は誤解にもとづくものだと思われる。適切に使えば、麻薬で呼吸が止まることはないし、命を縮めることもない。耐性形成で辛い思いをすることもないのだ。
WHOががん疼痛治療について「非オピオイド(バファリン等の非麻薬系の鎮痛剤)」「弱オピオイド」「強オピオイド(モルヒネ)」の三段階にわけて使っていくようにガイドラインを出している。最後の段階では痛みに対して「痛みがとれるだけオピオイドを使っていく」のが基本的な方針となる。
末期がんの看取り、というとホスピスケアを思い出す人もいるけれど、医師としての最低要求水準の中に患者の苦痛緩和は入って然るべきでないかな、と思っている。

三十日

当直明け。
朝方にコールされる。末期癌で疼痛コントロールをしている人が、吐き気を訴えているとのこと。そういえば一昨々日勉強したばかりだな〜と思いつつ患者さんと話してみる。意識レベルはクリアで、眠くなるような薬は使いたくないとのこと。飲み薬は飲めそうにないとのことで、静注薬を使用した。
勉強したばかりのことが実際に役に立つのはなんとはなしに嬉しい。非因果的結合というやつだろうか。

日中、妹に呼び出されて買い物に。結婚祝を何か買ってやる、と言ったのだけれど、忙しくて選びに行く暇がないから、お前選んでおけと言っておいたら、家具を買って欲しいから家具屋で待ち合わせようとのこと。
クローゼットを一つ購入。今日が引っ越しで、2tトラックを乗り付けて乗せていった。
まだ余裕のあるトラックの中身をみながら、自分が引っ越してきた時には2tトラックが一杯になって積むのに苦労するほど荷物があったのにな〜と思い出していた。(その理由は蔵書の量にあることは確かだろうな)

三十一日

のんびり起きて、のんびり朝昼兼用の食事をとり終わった辺りで電話が鳴る。
「花見しよう、花見」
‥‥‥てなわけで、国立の大学通りまで出向く。もうかなり散りかけの桜だったけれど、今年初めての花見だしまぁよいかという感じ。先週末辺りがおそらくは一番の見ごろだったのだろうと思ってみたりする。

そのあと病院に顔を出して、病棟で仕事をしていると、看護婦さん(一年目)が、「今日は一年目最後の日だね」などといっている。‥‥‥自分もそう、なのか。
明日からは先輩づらして後輩を教えないといけないのか。(そんなことはない)

「研修医はなぜ死んだ」読了。書評を書く。 


Written by Genesis
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