前夜

カチャカチャ、パタン。
軽い鍵音のあとに扉が開く。
長森が帰ってきた。
「ただいま、浩平。」
「おかえり。」
プレゼン資料作成の手を止めて、俺は玄関に出ていった。
「今日は早いんだね。」
「たまには、な。明日は発表だから、資料ができ上がるまでは寝られないけど。」
「晩ご飯はどうする?」
「とりあえず、炊飯器はセットしてあるから、スイッチ入れればご飯は炊けるようになってるけど。でき上がったら食べるよ。」
「じゃあ、すぐとりかかるね。」
長森は、通勤用のスーツを脱ぐと割烹着を頭からかぶる。「これが一番下の服が汚れにくい」のだそうだが、その姿を見るといつも俺は、小学校時代給食当番をしていたときの長森を思い出す。盛りが最初から最後まで常に同じになるようにとやたらと気を使う長森は、いつも汁物担当だった。
「たぶん一時間かからないでできるよ」
「それじゃ、お願いしよう」
少しふんぞりかえり気味に言った俺にくすりと笑って、長森は台所に立った。
 俺と長森は、現在半同棲状態──一応長森には家があるけれども荷物置き場と化している──だ。長森には仕事をさせておいて、俺はまだ稼ぎの少ない学生、というのは、それなりに気の咎める状態ではある。けれども理系の大学院に身を置くと、実験やゼミでバイトはおろか、家事もままならないのが実情で、その分を長森に依存している──つまりは髪結いの亭主状態、が今の俺。
当面の目標は博論の中間発表──それがまとまらないと今夜は寝られない。一息ついて、俺は端末に向かい直してグラフ描きを再開した。

ごはんできたよ、と声がかかって、俺は時計を見直した。ちょうど五十分がたっていた。
ちょうどいい。休憩にすることにして、画面上に開いた多数のファイルを保存しにかかった。
食卓の上には、ご飯とみそ汁、それに野菜炒めと煮物が少しずつ。
「食べ過ぎちゃうとあとで作業ができないでしょ?」
「そんなことはないぞ。なにしろ半徹夜は覚悟の上だからな。今夜のエネルギー消費はロケット並に多いはずだ。」
「比べるものが変だよ‥‥」
「まあいいや、食べるぞっ」
「いただきまぁす」
同時に食べ出しても、長森の食事の遅さは相変わらずだから、俺だけさっさと食べてしまうことになる。
「ごちそうさん。」
「おいしかった?」箸をとめて、長森が聞いてくる。
「うまかったぞ。特にご飯がだな。さすがにオレが炊飯器をセットしておいただけはある。」
「そんなの、関係ないもん。でも、このお米は駅前のお米屋さんで精米してもらったお米なんだよ。」
「へぇ、そんなことをやってる店があるんだ。」
「うん。おととい見つけて買ってきたんだ。」
得意そうに言う長森。本当にこいつ、まめだよな。
「ありがとう。──じゃ、作業に戻るな」
軽く伸びをして立ち上がった。スライドができ上がったら次は口演原稿が待っている。残り時間はごく少ない。
「浩平、洗濯物はある?」
「そこに一山。」
「たまっちゃってるねぇ。‥‥わたし、洗濯してくるから。持ってくね。」
そういうと、洗濯物入れにしている大袋ごと、よっこらしょと持ち上げる。
「サンクス。頼むな」
「自転車貸してね」
「ああ、鍵はそこにある」
長森のアパートはそう遠くないけれど、この大荷物抱えて帰るのは大変だ。せめてもの気持ちとして自転車くらい使ってもらわなければ。
長森を見送った後、また俺はパソコンの前に座る。残り時間は、あと十四時間。

長森が膨らんだ洗濯物を抱えて戻ってきたのは、ちょうど担当教官からの電話を受けていたときだった。
「‥‥はい、じゃあ7時に研究室ですね。──進捗ですか? 順調に遅れてますよ。何とか間に合うとは思いますが。──はい。でも発表はできるだけきちっとしたいですから。ありがとうございます。では。」
「何の電話?」
どさりと洗濯物を下ろした長森が聞いてきた。家で少しラフな格好に着替えてきたらしかった。
「『かっとびベンベー』だよ。明日朝七時に発表内容チェックだとさ。そこまでに何とかプレゼンできるようにしとかないと行けない。」
「大丈夫そう?」
「んー、これからスライドの微調整とか装飾とかやろうかなと思ってたんだけど、それやってると辛くなりそうだな。それに、ベンベーはスライドなんて読めればいいとか豪語する人だからな。口演原稿の方を先にまとめた方がよさそうだ。」
「浩平の研究かぁ。ちょっと見せてくれる?」
長森に乞われるままに、制作中のスライドを見せ始めた。
あまり大した目標もなく、理学部に入ってしまった俺。出会いは、学園祭の模擬店で「暗闇の射的」なる出し物を見つけたことだった。ターゲットに銃口が向くと音量が最大になるように仕組んであるのだが、意地悪なことにターゲットの底に発信機が仕込んであるから、音量最大のところで撃っても景品はとれない。わずかに上を狙わなければいけないというところが難しく、大人気になっていた。
遊びに来ていた長森と三回挑戦してみごとにスカだった俺は、ふと思いついてみさき先輩を呼び出した。学園祭と聞いて「人込みは苦手だよ....」といっていた先輩だったけれど、「暗闇の射的」の話を聞いたら興味を持ったらしくて、深山先輩と連れ立ってきてくれた。そして、すぐにコツを飲み込んで、三つも景品をさらってきた。
この模擬店を出していたのが、『かっとびベンベー』こと三海教授率いる工学部三海研究室のメンバーで、俺たちのことに興味を持ったのか、話しかけてきた。
そこで、俺は三海研が各種身体的ハンディキャップ──たとえば視覚や聴覚、肢体などの機能障害を補助するシステムを研究していることを知って──紆余曲折はありながらも、三海研のメンバーになって今に至るわけだ。
現在の研究のテーマは視覚障害者への危険通知。障害物がある道を歩く人にどのように障害物があることを伝えるか、を考えた。
「でも、あんまり考えつかないようなことを考えるね、浩平は。」
「だからベンベーに気に入られるんだけどな。」
「いいんだか悪いんだか....。」
はぁ、とため息をつく長森に、俺は笑っていった。
「さっきもさ、スライドはどうだって聞かれて遅れてますって答えたら、なんなら発表なんぞいい加減でいいぞ、研究は論文にしてなんぼだとか言われちまった。やるからにはもうちょっとかっこうつけたいんだけどね。」
「がんばってね。──わたし、邪魔しないようにこっちにいるから。」
「ああ。」
長森は立ち上がって隣の部屋へ移った。ふとんを敷いておいてくれる。俺はパソコンに向き直って、原稿の修正に取り組み始めた。

何とか読み通せる文章にするところまで仕上げて、俺はぐっと伸びをした。時計を見ると、二時を回っていた。頭の芯が重いような感じがする。疲れもたまっているし、そろそろ限界だろうか。
(寝よう‥‥)
そう思ってパソコンの灯を落とす。そっと隣の部屋をのぞき込むと、長森がテレビをつけっぱなしにしたまま眠ってしまっていた。一応寝巻には着替えている。
俺も寝巻きに着替えると、テレビと明かりを消した。
「ん‥‥浩平?」
長森が目を開ける。寝ぼけ眼だ。
「今日はもう休憩。明日起きてやる。」
目覚まし時計は五時半に設定した。ふとんに横になる。
「うん‥‥起こしてあげるね。」
「莫迦、そのくらいちゃんとできるさ」
自信は‥‥ちょっとないがなんとかなるだろう。
「うん‥‥でも、してあげたいんだよ。」
もそもそと動いて、長森は俺の肩に頭を預けた。
「最近思うんだ。今はまだ浩平は学生で、わたしがいろいろ手伝ってあげる余地があるけど、そのうち就職して、普通に仕事しだしたら、どんどん自分でやれることが増えてきて、だんだん、わたしがいなくても平気な浩平になっちゃうんじゃないかなって。しっかり自分で何でもできる浩平になるのはうれしいけど、そのかわりにわたしの居場所がなくなっちゃうんだったら、なんだか淋しいなって。──だから、せめて今できることをしてあげたいんだよ。」
「そう、か。」
長森の気持ちは、率直に嬉しかった。どこか──というよりどこもかしこも抜けている俺をずっと助けてくれてきた長森。長森の居場所がなくなるようなことはないと思えるのだけれど──それでも、こいつはそんな心配をしている。
「長森。」
この話は機会をみて、と思っていた。でも、今が話すときのような気がした。
「さっきの電話で、卒業後の話が出たんだ。助手として、大学に残らないかって。」
「え‥‥それって‥‥」
「安月給だけど給料は出る。研究を続けることもできる。なんか、ベンベーには買いかぶられているみたいで、腰を据えてやればもっと面白いことができるぞっていわれた。正直、俺はその話を受けてもいいかなって思ってるんだ。──そうなったら、俺も社会人だし、長森に甘えてばかりもいられないと思う。きちっと自立して、二人の関係も、幼なじみというだけにしといちゃ、いけないなって思う。」
そこまで一気に口にしてから、眠気が覚めたような長森の顔を見つめた。ゆっくりと、次の言葉をつなぐ。
「社会人になったら、二人で一緒に暮らさないか。」
いざとなったら、あっけなくその言葉を口にすることができた。
目を見開いて話を聞いていた長森は、ゆっくりと笑んで、答えた。
「わたしが、断ると思う?」
「‥‥ふつう、こういう話は断られるかもしれないと思ったらとても口に出せないと思うんだが。」
「そうだよね。ふふっ。」
笑って、いいよ、といった。
「良かった。──まだ忙しいけど、少し落ち着いたところでいろいろ考えないとな。長森の親とか、由紀子さんなんかにも言わないといけないし。役所の手続きもあるし。」
「でも、その前に卒業でしょ?」
「うぐ。そだった、もう寝ないと。」
「少しでも寝よ。明日は大事な日なんだから。」
長森は優しく言ってくれて。そうしたら急に、眠気がさしてきた。

(fin)


Written by Genesis
感想等は掲示板かsoh@tama.or.jpまで。リンクはご自由に。

ホームページへ