歳時記(diary):三月の項

一日

朝消化器の先生に呼び止められた。不定愁訴っぽい腹痛を訴える患者さんに、わたしが救急で出してみた薬が相当効いたみたいだったよという話。いや、わたしも使ったことない薬だったんですが(汗)。
使ったことない薬を出すのはけっこうリスクがあることで、効き過ぎ・効かなすぎ・副作用の発現などいろいろ考えると、効果がある程度自分で読める薬を処方するほうが王道とは思うのだけれど、その時は結構行き詰まっていた感じだったもので。
あともう一つ、救急外来で処方した場合効き具合を確認することはほとんど不可能で、そういう意味でもあとにつながらないとは思う。今回はラッキーケースということで。

二日

午前中も夜も処方日〜。

夜、頼まれて糖尿病の患者さんに腎機能や透析のことについて説明。まだ若い人なんだけど、病気もあって今後の生活設計についての不安がある様子。それはいいんだけど、同席した親の方が「今後の生活のこともあるんで何とか透析は先延ばししたい」とか仰る。……えーと、糖尿病ほっとくような育て方したのは誰でしょうかと。話していて、過去のことになんとも触れない仰りようにいろいろ思うところがありました。ま、人間ってそんなもんだろうとは思うのだけれど。

三日

午後は外来。その後当直。
午後外来では一人入院を入れて、当直では二人入院指示を出して。なんだかたくさん入院させたなーと思った。

四日

高学歴の人ほど低血圧で長生きの傾向、米研究 なんてニュースを興味深く読む。著者のEric Loucks氏をGoogle scholarで検索すると、Life course socioeconomic position is associated with inflammatory markers: The Framingham Offspring Studyなんて報告に行き当たったりする。炎症マーカーの上昇は動脈硬化病変のリスク因子であったりするから、このあたりもかかわりがあるのかな。
ふと、日本が長寿国であるのは教育水準とかかわりがあるのかなと思いついたり。

五日

日中家でのんびりして、夜から当直。
心臓絡みのトラブルが多い夜で。四時間ほどで入院三件指示はけっこう多かったと思う。

六日

当直明け。帰ってきてお買い物行って、帰ってきたらかなり眠くてそのまま熟睡.....。

「真夏の日の夢」(静月遠火/メディアワークス文庫)読了。ビフォーアフター的な家で起きる事件。結末であっという感じにうまくまとまっていたと思う。

七日

産婦人科外来から回ってきたのは妊婦で尿所見異常の方。聞けば検診でずっと尿潜血を指摘されていたのに放置プレイだった由。
……せっかく検診受けたのだから、結果は有効に活用しましょうと(ry

八日

透析の回診もそこそこに研修医の中心静脈穿刺の監督。
午後は午後で他の仕事が複数で。はあ。

九日

午前中透析当番に午後病棟みて夜は会議。
受け持ち数はあっさり二桁乗っているし。

十日

午前中病棟単位で午後は外来。
外来は休みの医師もいるということでかなり多く。そこそこに面倒な人も多く。

十一日

未明に電話。寝ぼけながら反応したのだけれども、当直の後輩から救急外来に末期腎不全の初診患者が来院した由。民間療法で何とかしようとしつつ結局どうにもならなかったらしい。BUNが300って初めてみた。まあ透析しないわけにはいかないし、幸い当直医で透析は回せそうなのでいくつか指示してもう一度寝倒れる。

午後には総回診中に地震。幸い透析はほとんど終わっていたし、病棟の患者にも問題は出なかったようだけれど、一時的に電子カルテが止まってみたりで対策に大わらわ。エレベーターもとまっていて、二階の外来に受診していた車いすの患者を人力で下ろしてみたり。

子どもは母にお迎えを頼み、帰宅難民になっていた相方を救出にバイクを走らせる。上りも下りも見事に渋滞していて、バイクでなければとてもいけない状況。ところによってはバイクですり抜け併用でも、歩くのとどっこいどっこいという速度で。迎えに出発したのが18時過ぎ、落ち合ったのが20時過ぎ。帰り着いたのは23時ころだった。

十二日

一夜明けて、病院は臨時態勢をとったけれどもそれほどの混乱はなくほっと一息。
しかし、連携のある医療機関同士で支援部隊の動員の話など持ち上がってきて落ち着かない日。透析患者を引受けて欲しいなんて連絡が茨城から舞い込んでみたり。(どうも停電・断水で診療のめどが立たないらしい)
透析患者は中二日くらいの間には透析を実施しないといけないので、こういったときには迅速に引受け場所を確保しないといけない。広範な被害がある今回のような災害ではかなり遠くまで送らないといけない。中越地震の時には県内で融通することで何とかなったと聞いているが、今回ほどの地震では日本をまたにかけるくらいの規模になるのではないかと思う。

十三日

午前のところで軽く庭を掘って、じゃがいもの植え付け。スコップで軽く土を掘り返してから溝を作って埋める。小さな畑には少々多いほどに買ってきてしまった(それでも1kgだけど)ので、切りもせずにそのまま穴を掘って埋めた。
その後少し病院出勤して震災対応して、バイク給油して帰ってきたけれど....あとできいたらそろそろ燃料需要が逼迫してきているそうな。

十四日

午前外来で、昼過ぎから計画停電という話だったのでかなり巻きを入れて外来をこなす。緊急検査なんかはやらずに次回廻しにする方向で。
電子カルテもシャットダウンして、さてそろそろ停電、と思ったところで急に「停電中止になりました」ってアナウンスが入ってがっくりする。もっと早く情報出せよと>東京電力
その後も翌日の停電予定が入ってきたのは午後八時。そこからどう対応しろと言うのだ。「もしかしたら明日も中止になるかもしれないし、明日対応したほうがよくね?」「そうだね」ってやり取りでこの日は仕舞い、ということになった。

初めこの計画停電も、病院などを例外にして送信し続けるのは技術的に困難といっていたのだが、結果的にはある程度病院などには送電し続ける処置を行っている様子。初め技術的に難しいといっていたのはどこへ行ったのかと。時間のないこととはいえ、泥縄が目に付くのはあまりいいことではありませんなぁ。

十五日

今日は午前中に計画停電。えーと、結局やったのかやらないのか不明のまま、日常業務に入っていく。
外来透析クリニックは(というか自家発電が足りない病院のほとんどが)実は周辺と同じ計画停電の影響を受けるようで、停電の時間を外して透析をする計画を立てている。今日は午後から透析ということで、急きょ午後から行って透析当番。

原発に関するQ&Aまとめ。とりあえず基礎的な理解の整理に。
福島第一原発がかなり厳しい状態に。状態はほとんどスリーマイル事故並み、とわたしはとらえているのだが。放射線被曝が積み重なっていく中で必死に対応している現場の作業員たちに敬意を。そして、小出しの対応で却って事態を悪化させているように見える東京電力上層部に「おまえらとりあえず現地へ行ってポンプ回す役にでも立ってこい」とでも言ってやりたい。
そういえば「原発事故なんて、石原慎太郎みたいな元気な年寄りに対応させるのが一番後遺障害の影響も小さいしいいんじゃないか」って言ってた人がいたなぁ。

十六日

これまで当院では患者個々人の透析時間は調整しないで何とかなっていたのだが、当面長い人でも四時間までにして対応すると患者に通達。大体は皆さん「やってもらえるだでありがたい状況ですからね」などと仰って協力的。
米国人には理解不能、大地震でも治安が揺るがない日本 なんてニュースが世界に発信されているくらいだものなー。自己の幸福を(他者を省みずに)追求するのが個人主義であるのならば、日本はやはり個人主義が浸透していない国なのだろうと思う。同時に、個人主義が必ず人を幸せにするわけではないのも確かなのかな。

十七日

「ラジヲマン」発売延期かぁ。まぁ知らない人が読めば不謹慎なネタのオンパレードだしなぁ....。

「安全な原子炉の構造」をつらつら考えていたのだが、今回起こしているレベルの事故の時でも自然に止まる、ってことになると海底原発にして、建屋が壊れると海水が流入するような構造しかないのかなーと思ったり。ええ、もちろん放射性物質が海中に流出しますが、チャイナシンドロームだけは避けられる、みたいな。
原子炉の燃料ってやつが保管しておくだけで熱を持つ、冷却が壊れるだけで問題を起こしてくるほどに危険なものであるってことは今回の事故で認識を新たにした点。

某患者さん。地震ということで家族が心配になり(もちろん連絡はきちんと取れていて都内にいる)退院を希望するので退院。次回外来を予約していたら、放射能が心配ということで大阪だかまでもう移動してしまったようで、薬がなくなったらどうしたらいいかと電話が入ってきた。
冷たいようだが、病院としては受診してもらわないとどうにもならないと返事した。せめて診療情報提供書を書いてくれと頼みに来ておいてくれれば書いたのにと嘆息。不安に鼻面を引き回されて行動すると却って余計な問題まで背負い込む、ってことの一例として。

十八日

東電全面退去打診 首相が拒否…水素爆発2日後 なんてニュースが流れてちょっとぼう然。多分真実は薮の中になるのだろうけれども、原発への対策を甘くみていたのか、本気で安全神話に浸かっていたのか。自分たちが作ったものがトラブルを起こして放射性物質をまき散らしかけているのに、その後始末を他人任せってのはなしだろうと。
被曝して死ぬまでやれという表現はどぎついけれど、事実その覚悟がないのだったら原発は作らない方がよかったのでは?と思った。

十九日

震災対応で日々が過ぎているような気のする今日この頃。本日はお休み。

ふと「復活の地」を思い出して本棚から引っ張り出す。大震災で幕を開け、復興と防災の話がかなりの比重を占めるストーリー。植民地の一高級官僚でしかなかったセイオ・ランカベリーは、たまたま生き残り、直後の救援活動をなりゆきで指揮することになったために復興院総裁という役職までやることになる。
震災時の彼の指揮は水際立っている。それは指揮というにはやや乱暴だ。「必要だと思ったことをやれ、責任はこっちでとってやる」という檄。困ったことがあれば後方に連絡して多方面と連携するのを手助けするのが指揮、といったやりかただ。
そして、"私心なく"という思いもまた強烈だ。「省衙が崩れようが吏員が死に絶えようが、官の理念と目的は滅しない。それは有形の何物かに発するものではなく、ましてや支配者の尊大な権威から派生するものでもなく、ただ臣民への奉仕の必要性から生まれくる。官たろうとするならそれを忘れるな。おまえが従うのは一に公の福利のみだ」師と仰ぐシマックから伝えられたそんな思想は、時にセイオを縛り、迷走させる。"民"を見誤ったセイオだけれども、原点に立ち返り改めて歩み直すことになる。
セイオの「おれは何をしなければならないのか」の問いが鋭い。「したいことではなく、しなければならないことをなす」窮屈ではあるが厳格なそんな思いを貫こうとするところに、わたしは魅力を感じる。
東日本震災の復興に向けて、わたしは何をしなければならないのだろうか。そう考えている。

二十日

子どもの面倒を見つつ休日。
それぞれに我が強くなってきて、ぶつかって揉めること多数。こまったものだ。目先を変えるつもりで本屋に連れだせばふらふら歩いて本棚にぶつかって本の山を崩すし。
「Gosick」の最新刊見つけたのだけれど、帯を見ながら「これヴィクトリカ?」とか口にしてた息子....。

二十一日

透析当番で出勤。わたわたしながら必死でこなして、そのまま夜は当直。

二十二日

当直明け。夜は停電の関係で日が沈むくらいの時間には保育園のお迎え、ということなので特急で仕事を片づける。……そんな日に限って二人も入院が入らなくても。

二十三日

気付くと15人くらい入院患者を抱えててこなすので精一杯だったり。でも結構な数が寝たきりだったり病状悪かったりで療養目的入院になりつつある人々で。
実はこういう人たちが一番今後どうしていくかが難しい、ある意味で。どの手だてが一番不幸ではないか、みたいな検討になるので。

二十四日

午前病棟・午後外来。そんでもって夜は子どもお迎えしてメシ喰わせて風呂に入れて。
子どもが寝入ったところで病棟から患者病状悪化の連絡が入ったのだけれど、相方が不在の夜だったので子どもだけ放置するわけにもいかず。電話相談を受けるだけにとどめた。

二十五日

昼過ぎ、某上役の先生から電話。
水道水から基準を超える放射性ヨウ素が検出されたりしたケースにからんで、透析のRO水発生装置でヨウ素などは除去できるから、産婦人科などに水を廻してもいいんじゃないかと。「現状ではそこまでする必要はないので、今後必要になったらやります」と返事したのだけれど。
これも一種のパニックというか、情報に躍らされているというか、そういうものだよなぁ。ちなみに当院の水道水は金町浄水場からの水は入っていないことがわかっている地域ですし。

二十六日

午前中外来支援して、午後ちょっと病棟観て。

アンサイクロペディア栄村大震災なんてエントリを発見。本当に栄村では栄村大震災と呼んでるし。アンサイクロペディアに嘘を言わせなかった震災とでも呼べばいいのだろうか。

二十七日

休日。のんびり録り溜めの番組を消化したり。
「恋する日本語」とか観てたんだけれど、息子が割と気に入ったらしい。まぁ、刺激的な話じゃないしむしろ教育的ですらあると思うのだけれど、五歳じゃあ内容はわかってないだろうな、きっと。

二十八日

外来終わってちょろっと病棟みたあと透析診療所の回診へ。
待ち時間で「神様のメモ帳」を読む。わりと好み。

二十九日

外来透析の当番して、夜は当直で。
ベッド空いてなくて入院適応患者とるのが厳しい日。そもそも来院者がほとんどいなかった。

三十日

当直明けて、病棟業務。けっこう今入院患者が多いので、貴重であったり。

三十一日

朝急に関連診療所で急な医師の欠勤があったとかで駆り出される。
年度末までばたばた...。


Written by Genesis
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