オシフィエンチム−ウィーン旅行記

2001年の4月5日から12日の日程で、ポーランドからオーストリアに旅行をしてきた。目的は、強制収容所として有名なアウシュヴィッツ(現地名ではオシフィエンチム)と、ウィーン。この文章は、大学を卒業して就職するさいに、少しだけ時間がもらえたので、長期の旅行をしようと企んだ記録である。

初めは一人旅の予定だったのだが、懐が寂しいために母親に借金を申し込んだところ
「どこ行こうと思ってるの?」
「えっと、アウシュヴィッツと、それからウィーンのつもり。」
「あら。‥‥‥いいわねぇ」
「‥‥‥((^^;;;)」
というようなやり取りの後、母親も同道することとなった。

初日(4月5日)

起床はAM5:00。昨日のうちに用意しておいた荷物を車に積んで家を出る。空は綺麗に晴れて、一日よい天気になりそうだ。バス停前に着くと、先客がちらほらみかけられる。荷物を下ろして、送ってくれた父に別れを告げた。
成田行きのバスの出発時刻はAM5:40で、集合時刻はその10分前。待っていると、係員が現われて荷物の受取を始めた。
飛行機の時間は昼近く、とだけ覚えていた。一週前にわたしの引っ越しを手伝いに来るため両親が首都高を通過しようとして、朝もまだ早いのに渋滞に捕まった話を聞いていたのでかなり早めに出発したのだが、案に相違してすいすいと首都高を通過、成田空港に8時前には着いてしまった。‥‥チケットを見直してみると出発時刻は12:00。早すぎじゃん。
しょーがないので出発ロビーでかわりばんこにしばしぼーっとする。母上は小さな折り紙を持参して、ひたすら折り鶴作りに精を出していた。(これはわりといいアイディアかもしれない) わたしは変に色使いの派手な浴衣やら「禅」と書かれたキャップやらを売っている店を見つけて見学して歩いたり。西洋人の考える日本像って、あんがいこーゆー所から生まれているのかも。
出発手続きを済ませたあと、うどんなど食べておく。朝は前夜のうちに用意しておいたおにぎりだけだったので、少しお腹がすいていた。
食事の後は出国手続きをして、搭乗。ほぼ定刻にアエロフロート583便は出発した。

モスクワまで10時間、乗り継いでワルシャワまで2時間少々の旅。‥‥正直言って暇。機内食を食べ、窓からの風景を見物し、おしゃべりして観光ガイドを見て本を読んで寝て。ゼナ・ヘンダースンの「ピープル」シリーズを少し読み、「ウィーン薔薇の騎士物語4」を再読して、それでも暇を持て余していた。
かなり長くベルトサインがついていたこともあって、ずっと座り続けていたら後半はなんだか足が重くなったような感じがした。あぐらをかいてみたりなんだりしたけれど、その場しのぎにしかならない。やっぱりエコノミークラスは辛いのか。乗機前と降機後で足の太さを比較してみると差がありそうな気がする。 アエロフロートの客室乗務員は意外に男性が多かった。あんまり綺麗な日本語を話せないようだったけれど、訛の強い案内放送がなんとなくかわいかったりして。(^^;

モスクワ着は現地時間で17:20。乗り継ぎ(transfer)を行なうためにしばし逗留する。しかし、大国の首都の空港にしてはやけにさびれた印象で、おそらくはもう一つ空港があるのではないかと思ったのだが。
乗り継ぎの手続きがちょっと変わっているので注意して欲しいとエアツアーズポーランド(*)の人にあらかじめ言われていた。航空券と搭乗券が引き換えではなく、あらかじめ航空券を渡しておいて、あとで搭乗券を受け取る仕組み。けれど、あまり海外旅行の経験のないわたしにとってはそんなものかで終わってしまうことだけれど。
乗り継ぎ時間は3時間ほどあり、母上と二人でぼぉっと暇つぶしをする。免税店もいまいちだしねぇ。
時間がきて搭乗手続きを行なったが、金属探知器を反応させてしまったら(わたしの場合ベルトのバックルがよく反応してしまうのです)えらく徹底的に調べられた。3本セットになったフィルムのパッケージを開けろとか言われるし。

(*)エアツアーズポーランド:今回の旅の航空券とポーランド国内の宿泊の手配を依頼したところ。ポーランド航空の関連の会社で、アエロフロートとも提携しているらしくスムーズにチケットがとれた。払いが円建てで可能なのも楽でいい。オフィスは新橋にある。

次に搭乗したポーランド航空のワルシャワ便は割と小さなジェット機。出発してすぐ軽食が出されたけれど、パンがお代わりできたりとなかなかサービスがよい。
日本時間に合わせて言うと、ワルシャワへ向けて出発したのは午前2時近く。夜に強いわたしはともかく、母上様はだいぶお疲れのようだった。
モスクワ−ワルシャワは日の入りを追いかける形で飛行機が飛ぶ。窓から見ると白夜のようで綺麗であった。
ワルシャワ空港に降りて入国審査。‥‥ここでひっかかる。係員の言ってることが理解できなかったため。(死) 「入国目的は?」とか聞いていたようだったけれど。最後は半ばあきれられて解放された気がする....。
ちなみに、わたしの次に審査を受けた母親はさくっと通れた。何を言ったかというと「Me, too.」だそうである。(爆) そりゃあ、係員も諦めて通すわけです。

二日目(4月6日)

前日はホテルまで這うようにしてたどり着いて、そのまま寝てしまった。気が高ぶっていたのかあまり熟睡できないまま起床。
この日はワルシャワからクラクフまで移動の日。泊まったメトロポールホテルは朝食がバイキング形式で、それに気づかずしばらく座っていたおばかな私たち。(^^; 食事自体はとてもよかったと思う。
ホテルをチェックアウトし、ワルシャワ中央駅までとことこ歩く。日本風に言えば通勤ラッシュの時間帯だけれど、人通りもそんなに過密じゃないし、なにより歩き方がゆったりとしている。駅でしばらく時間をつぶしたのだけれど、走るようにホームへ降りて行く人などほとんど見掛けなかった。

窓口でクラクフ行きのInterCity特急の切符を買う。事前にエアツアーズポーランドの人に貰っていた時刻表のコピー(ドイツ鉄道の時刻表のページを検索すると手に入る)の乗りたい列車の所に印をつけ、「2 ticket please」と添え書きして出すと二等車の指定席券がきた。(おそらく全席指定) ほんとは一等がよかったのだけれど、結果としては二等でもあんまり変わらないかも。コンパートメントに鍵がかかるのが大きな違いらしい。結果的に6人がけのコンパートメントを2人で占領していた。
支払いの際に数字を書いて渡されたのだけれど、これが読めず。100zt札を出しても首を振られたので、クレジットカードに切り替えた。でも窓口でだいぶ時間を喰ってしまって、並んでいた人に申し訳なくなってきた。あとで実は146.6(zt)を請求されたことを知ったが、この4の字がひどい癖字で。日本では見たことがないような崩れ方だった。数字一つとっても独特の書き癖があるということを初めて知った。

日本でのように改札などはなく、自分でホームに降りて乗り込む。切符に書かれた席がどのあたりにあるかは、ホームの掲示板に列車の編成などが書いてあるので、それを参考にした。「地球の歩き方」を読むとホームでスタンプを押しておく必要があるように読める箇所があるが、少なくとも都市間の特急列車に関してはそういうことはないよう。
わたしが乗った列車はワルシャワ−クラクフ間ノンストップで3時間ほど。その間におやつのような軽食が配られた。(ちなみに食堂車もついていたようだ) この軽食を有料だと思って係員を押し売り扱いしたわたしたちはとっても罪深いと思う。(^^;
車窓の風景は北海道あたりを見ているような平坦な農村風景がほとんど。違うのは、いまどき日本で農耕馬が鋤を引いている姿など見られないことだろうか(笑)。3時間近くを和んで過ごした。

クラクフ駅で降りるとまずは宿泊先のホテル・ワルシャウスキに向かう。途中で客引きらしいおっちゃんが「アウシュヴィッツまでタクシーどうかね」などと言ってくるがさっくり無視する。あとでまたこのおっちゃんに声をかけられたときはちょうどオシフィエンチム行きのバスの発着所を探していたので、それを尋ねたが結局はっきりした答えは得られないままタクシーの勧誘に移っていった。その時に「始めは疑ってたけど、親切な人でした」などと書かれた葉書を見せられたのだけれど、結局ぼられていることがわかるような文章を見せてくるのもどうかと思うぞ>おっちゃん
このおっちゃんもホテルのフロントも、わたしらを見た瞬間日本人と認識したらしい。ホテルのフロントなんて、予約票見せる前から「スズキさんですね?」みたいなこと言って来るし。あなどりがたし。
そう、このフロントが異様にフレンドリーだったことは特筆しておきたい。オシフィエンチム行きのバスの乗り場の位置を問えばわざわざ玄関の外へ出て説明してくれるし、わたしの名前(普通に綴ればSouだがちょっとしたこだわりでSohにしてある)に興味を示してみたりする。英語がばりばり通じるのも嬉しい。もちろんこっちの語学力がからっきしなのだけれど、訛が強くない分聞き取りやすかった。

ホテルについたのが少々早く、チェックインまで間があったので、この間に(アウシュヴィッツ博物館のガイドをお願いしている)中谷さんに電話をかける。ホテルのロビーには公衆電話がなかったので、外へ出てみたのだが、テレフォンカード式の電話が圧倒的に多く、カードを買わないと電話をかけられそうになかった。ガイドブックには郵便局でカードが買えると書いてあったが、どこで売っているかよく分からなかったので諦め、道端の売店(カードありますみたいな表示があったので)で買った。多分英語ではだめと踏んで、ガイドブックと首っぴきで紙にポーランド語で「100度数のカードをくれ」と書いて見せたら、あっさり買えた。(ただ、渡されたカードは25度数だったかもしれない。)公衆電話の使い方は日本とほぼ同じだった。

余談。度数の余ったテレカで日本に国際電話をかけたら、通じた瞬間に切れた。やはり料金が高いのか。次にかけたのはウィーンでだったけれど、この時はクレジットカード公衆電話を使ったのでその心配はなかった。

無事に荷物を置くと市内観光へ出た。クラクフは小さい町なので、一通りのものは歩ける範囲に揃っている。この日は天気もよかったのでそぞろ歩き気分。市内にちらばるさまざまな教会や、歴史遺産を見て歩いた。(街自体が生きた化石とも言えるが)
雰囲気としては静かでゆったりした感じ。年を経た街らしい、とも言えるかもしれない。
クラクフはもともとポーランドの首都で、王の居城があったところで、その城がヴァヴァル城。この日は中には入らず外周をめぐったが、川のほとりに築かれた、いかにも中世の城という感じがよい。河川敷が芝生の美しい公園になっていたが、サッカーボールを蹴って遊ぶ子供やチェスに興じる若者の姿などが見られて、ほのぼのした感じ。二人で愛を語る風のカップルもいて、うらやましく思った次第。(^^;

ヴァヴァル城の対岸に、日本美術・技術センター"Manggha"がある。なんでも日本美術マニアだった故フェリックス・マンガ・ヤシェンスキ氏のコレクションが展示されているとのこと。
展示のメインは浮世絵と陶磁器だったけれど、写楽や菱川師宣、歌麿などの著名な作家の作品だけでなく日本ではあまり聞かない作家の作品が多数あったりと、幅の広さが窺えた。
帰りに売店を覗いてみると、合気道や漢字の紹介の本に混じって「Dr.スランプ」や「ああ女神さまっ」「セーラームーン」などのポーランド語版が売られていた....。おそるべし。(話の種にと「エヴァンゲリオン」のマンガ(ポーランド語版)を買ったわたしもたいがいだが)
この売店には「天の涯まで」(池田理代子)のポーランド語版もあったが、ポーランド独立のために闘ったユーゼフ・ポルシャウスキの生涯を描いたこの漫画を読んでから旅立つと、ポーランドの歴史を少しは理解できてよいのではないかと思う。

マンガ美術館(なんか違う....)を出てから一度ホテルに戻り、夕食へ。どっか適当なBar(バル)で、とも思ったのだが、なにせメニューが分からない。(ポーランド語は表記ではラテン文字を使うが、語族としてはスラブ系のため)昼はそれでも駅近くのBarで取ったのだが、見えるところにおいてある料理を指差して「あれをくれ」とやるのが精一杯。わたしはメニューを眺めてpierogiなど頼んでみたけれど。
またそれをやるのは嫌、という意見もあったのだけれど、実物を見られる店があるかどうかも分からないということで、ホテルからほど近いカフェ"zakopianca"に入ってみることにした。
出てきたウェイターにいきなり"Can you speak English?"と尋ね、あまりうまくないと言われたので以降英語で通してしまう。(死) わりときちんとしたところでは多少の英語は通じる感じだけれど、メニューはポーランド語なので料理の名前くらい少しおさえておくと食事が楽しいかもしれない。
スープ、サラダにチキン、コーヒーで二人合計60ztちょっと。こんなところではないだろうか。
食べ終わって外へ出たら、オープンカフェになっている外側にも多少の人がいた。日本人的には外で飯を喰うほど暖かくはないのだが。(そのあとコートもなしで外へ出たけれど、ちょっと肌寒かった。コート来て歩いていればそんなに寒くないのだけれど)

三日目(4月7日)

昨日よりはよく眠る。それでも五時過ぎにちょっと目が覚めてしまった。
こちらのホテルの空調は全体に乾燥気味に設定されている気がする。喉の弱い人は辛いかもしれない。
朝食はバイキング。美味しくいただく。どうでもいいが、従業員が(少なくともわたしたちに対して)常に英語で応対してくれるのはやっぱり気を使ってくれているのだろうか。町中ではポーランド語を多少操る必要性を感じたが、ホテル内ではむしろ英語だけで足りる感じだった。(他のホテルは知らんけど。)

ちょっと早めにホテルを出て、オシフィエンチム行きバスの発着場所へ。ワルシャウスキから見ると駅の反対側の広場から、一時間に一本くらい出ている。直行便ではないので「アウシュヴィッツ」とでも行き先を伝えたほうがいいようだ。値段は一人10zt。
待っていると旅行者っぽい人々がかなり集まってくる。英語で話がはずんでいる若者のグループあり、一人待っている風の老婦人あり。東洋系はわたしたちだけだった。
バスはそこそこの混み方。たぶんまだシーズンのピークではないのだと思う。田舎道をひたすら走るので、揺れに弱い人は酔うかもしれない。もっとも、日本の高速バスと比べたら大差ないかもしれないけれど。

オシフィエンチムの博物館前で、案内をしてくれる中谷さんと待ち合わせ。中谷さんはポーランド語の通訳をされている方で、嘱託の形で博物館の説明員をしているらしい。「地球の歩き方」には「予約の方がいい」みたいな書き方だったけれど、多分あらかじめ連絡取らないとだめ。
博物館の説明文はポーランド語・英語・アラビア語(?)の三ヵ国語で書いてあるのでとりあえず大意はつかめるが、いろいろ話を聞けるので行くなら連絡を取っておくといいと思う。仕事の都合で案内できないこともあるそうだが。
一通りめぐってみての感想としては、その物量に圧倒されたというのが第一だろうか。囚人の食事を賄ったという厨房の大きさ、囚人の遺品や遺髪、残された写真、整然と立ち並ぶ囚人舎。そのどれもが人を殺すことに直結していたのだと考えると、その重さは恐ろしいものだと思う。
その一方で、整備された構内は芝生の綺麗な公園のようで、暖かな日差しの中で歩いているとどこかの住宅街を歩いているような錯覚を覚える。周りを取り囲む有刺鉄線さえなければそのものとすら言えるかもしれない。
館内にはヒステリックなプロパガンダはない。ただ淡々と、分かっている範囲での事実を伝える遺物を展示し、分かっている範囲での解説を添えているだけだ。それをどう考え、どう行動していくかは見る人に任されている。真実を伝えるといいながら一つの解釈を強要するような団体が幅を利かせている日本の現状を思うと、オシフィエンチムのような博物館がアジアにも欲しいと思うのだ。

アウシュヴィッツ収容所は初めポーランドの政治犯などを収容するために建設され、ユダヤ人撲滅政策が本格化してから大きくなっていったという歴史があるようだ。9割以上がユダヤ人だったけれど、ジプシーやポーランドなどの政治犯もここに送られ、ある者は強制労働の果てに、ある者はそのままガス室に送られて死んでいった。
政治犯の中には銃殺されたものもいるということで、それに使われたところにはたくさんの献花があった。立ち牢や餓死牢などの設備も見ることができた。
ガス室はソ連軍が迫ったときに破壊され、使用されていた形のものは残っていないのだそうだが、もともとガス室で、倉庫に転用されていた部屋に当時の様子が再現されている。いかに人を効率よく殺すかを優先して作られたシステム、それを必要とした状況を、再現させてはならないと思う。

囚人生活を展示する部屋の入り口には囚人たちの顔写真がたくさん飾ってある。その多くがポーランド出身の人なのだそうだ。ポーランドは占領されたとはいえ、亡命政府がフランスにあり、国民の安否についての問い合わせを行なったりもできた。
それに対してユダヤ人は国を持たない民族であり、彼らを庇護してくれる政府を持たなかった。故に、囚人についての記録はユダヤ人に関してはだいぶいいかげんなのに対し、ポーランド人(その中にはポーランド在住のユダヤ人も入っていると思う)については少しはしっかりしているということだった。

中谷さんはいろいろと自分の考えを話してくれて、それがなかなか面白かった。印象に残っている言葉がいくつかある。「ヒトラーも選挙で選ばれたのだ」「ナチスの親衛隊で大事にされていたのは『上司の命令を聞く』ということだった」など。
欧州での右翼勢力の台頭についても、「右翼勢力が大きくなる一方でそれに対する批判も大きくなるのは社会の健全さを示すものではないか」と言われていた。「右翼が外国人排斥を叫び回っても何も対応しようとしない、外国人に部屋を貸さないような差別が堂々と行なわれている日本のような状態の方がよほど怖いのではないだろうか」という言葉には正直どきっとした。わたし自身、そういう事実はたしかにあることを知っているけれど、知っている以上のことは何もしていなかったのだから。
突然話が飛ぶけれど、わたしの好きな歌手であるさだまさしの歌に「前夜」という歌がある。歌詞の内容を読むと別に何かの前夜を歌っているわけではない。――けれど、ナチスの台頭にも太平洋戦争にも前夜があり、それ自体はきっと穏やかに人々が気づかない形で進んでいたのだろうと考えると、もしかしたら今が何かよくないことの前夜である可能性もあるのではないか、そう思えてくる。
時を戻すことはできないのだから、わたしたちにできるのはよりよい形の未来を作ることしかないのだろう。

アウシュヴィッツ収容所の運営をおこなっていたのはもちろんナチスのSSの兵士たちだが、彼らに協力して舎監のような立場にいた囚人もいたのだそうだ。彼らには他の囚人とは違った広い部屋が与えられ、展示されている当時の絵には痩せ細った囚人たちに対しやや太り気味の体格で鞭を振り回している姿が描かれている。
彼らを裏切り者と罵るのはたやすい。けれど、明日をも知れないような収容所で「お前だけ特別扱いしてやろう、ついては他の囚人たちを管理する役を担ってくれ」と耳打ちされて、それを断わることのできる人が何人いるだろう。舎監役を担った人の中には囚人たちを守る立場で働き、感謝された人もいるという。一概にすべてが裏切りとはとても言えないことは確かだ。
SSの兵士たちにしても、やっていたことは許されることではないのだけれど、彼らを罰したところでそれは大きなメカニズムの歯車一つを問題にしているようなものだと思う。家に帰れば優しい親であったかもしれない彼らが何故犯罪的な仕事を進めることになったのか、それを解明するためにこの博物館はあるのだと思う。
人はもともと悪魔なのではなく、状況次第で悪魔にもなれてしまうのだと思う。避けるべき状況とはどのようなものか、それを考えてみたい。

見終わって中谷さんと別れた後、構内のBarで軽食を取り、余った時間でもう一度見直してみる。わたしはなにか展示を見るときは自分のペースでゆっくりと見たいタイプなので、誰かと一緒に展示を見に行くのは実はあまり好きではない。そーゆータイプの人は、もう一度ゆっくり回れるようなタイムスケジュールを組んだほうがいいかもしれない。
帰りは中谷さんにバスの出発場所を教えてもらって乗り込む。行きのバスより安く(7.5zt)車体もボロで(笑)、到着場所がワルシャウスキホテルのすぐ前。行くときに乗った駅の東口から出るものではなく、駅の西口のバスターミナルから発着するバスらしい。
微妙に時間がずれているので、使いやすいほうを選んだほうがいいだろう。

クラクフに戻ってくると、そのまま再度の市内観光へ。昨日廻り残していたヴァヴェル城内を回る。とは言っても大聖堂内に行かなかったので、そんなに時間はかからない。外から眺めただけだけど、石づくりの建物や大聖堂は風格を感じさせてくれる。中庭の庭園には昔は水が流れていたのだろうか。 郭の一部にミュージックショップがあって、ショパンのCDなどを売っていた。ちらっと見てみたが英語のものがなかったのでなにも買わずに出て来てしまった。
帰りに再度織物市場に寄る。ここは土産物屋が軒を連ねていて、いろいろなものが見られる。大別するとチェスボードなどの木工品、民族衣装、ガラス器、装飾品などがある。
わたしはチェスボードとシャツを買った。

この日の夕食は「地球の歩き方」を参照して、"Balaton"へ。嬉しい誤算は英語のメニューがついていたことで、頼みやすくなっていた。スープと「二人分の料理盛りあわせ」みたいなものを頼んで約70zt.量はたっぷりで、少し残してしまうくらいあった。

四日目(4月8日)

熟睡。国家試験の不合格通知がくる夢を見るという夢(ややこしいな....)を見たことは忘れておこう。
朝食後、一人でカメラをかついで街をふらつく。バルバルサ門から市街へ入り、聖マリア教会のラッパの音を聞いて、ヤギウォシチ大学の前のコペルニクスの像を眺める。こういうことをしている時間が、中世の時間を感じられてよいかもしれない。
日曜日ということで朝のうちは人通りが少なかったのだけれど、次第にミサに行くとおぼしい人々で道が混み始める。これまでも道を歩いていて修道士と行き合うことがしばしばあった。クリスチャンだったら教会の礼拝に行ったところだろうけれど、不信心な人間としてはせいぜい入り口を眺めるくらいだ。(聖マリア教会の入り口には、"Prayer only."と記されていたことだし)

戻って荷物をまとめ、チェックアウト。フロントで空港行きのバスへの乗り方を聞いたら駅前の郵便局前から152番のバスに乗ればよい、と言われてダイヤをチェックしたのだが、路線図に「空港lotinsko」という言葉がない。
少し疑いながら乗ってみたが、終点まで行ってもやはり空港にはつかない。みんな降りてしまったところであわてて運ちゃんに聞いてみると、どうもそこで接続できる192番のバスに乗ればよいらしい。運ちゃんは英語がわからなかったが、フロントで書いてもらっていた降りるべきバス停の名前を見せたら「向こうに行け」みたいな手振りなので、それに従った。
クラクフ空港は小さな空港で、閑散とした感じ。軽食を取った後手持ちのポーランド通貨をすべてドルに換え(でも次の目的地であるオーストリア・シリングに換えておいたほうがよかったかも)、出国審査を済ませた。

ウィーン便の搭乗は14:15から開始、とチケットには書かれていたのだが、その時間になってもいっこうに改札が始まる気配がない。14:30になってようやく係員が来てゲートが開いたのだが、そんなに遅くなったわけはすぐにわかった。改札が終了し、ゲートの前に横付けされたバスに乗り込んだ乗客は、わたしたちを含めて三人。(爆笑)
そんだけ少なきゃ、少々搭乗を遅らせてもさくっと片付きますな。でも、たった三人のためにプロペラ機とはいえ70人乗りほどの飛行機にスチュワーデス2人をつけて飛ばしてて採算合うのか?>ポーランド航空。ちょっと心配になったりして。
サービスはとってもよかっただけに、なおさら気になるんですけど。

ウィーンでの入国審査は問題なく通り過ぎ、国電に乗ってウィーン中央(Wien mitte)駅へ。ウィーンでの宿、Hotel Austriaまでは駅から歩いて15分ほどだった。
Hotel Austriaはこぢんまりした宿で、部屋もそう広くはないが必要十分。バスタブなしでシャワーだけなのが不満といえばそうかもしれないが、あんまり気にならなかった。ちなみにお値段はツイン一泊一食付きで1850ATS。
ここは「地球の歩き方」の宿紹介を見ながら選んだところ。事前にFaxを送って予約をしたのだけれど、その時「ツイン一部屋」と依頼したら「ダブルのお部屋一つでこれだけになります」と返事が帰ってきたりした。さすがに母親とダブルに寝る気にはなれないので(笑)、返事を返して換えてもらったのだけれど。
荷物を置き、ほっと一息ついたところで18:00。外が明るいうちにと夕食を食べに出る。ホテルを出たところにある肉料理屋が日本語メニューも置いているということで、そこにしてしまった。

食事を済ませてもまだ少し明るかったので、手近なところを散策する。少し北へ出るとドナウ運河があるということでとことこ行ってみるけれど、まあ単に川が流れているだけ。(当たり前だが)
そこから少し曲がりくねった道を行くと、ビルとビルの間に渡された渡り廊下のようなところに巨大な仕掛け時計(アンカー時計)がある。数分に一度ずつくらい動くほか、時間になると人物像が動いたりなんだり、派手な動きをするらしいのだがそれは見られなかった。

五日目(4月9日)

朝食を取り、まずはホテル近くから探索を開始する。ランタン通り・バジリスクを抜けてからグーテンベルグの像を眺め、シュテファン寺院へ回る。
このあたりになると観光客やそれ目当てのお馬車などでかなりにぎわっている。わたしたちもおのぼりさんモードになって寺院内の見物を始めた。
もちろんキリスト教の教会だから、内装にはマリア像やらキリストの生涯にまつわるものが多い。壁画など眺めながら、クリスチャンでもなんでもない人間にとっては基礎知識不足で、寺院美術の素晴らしさを実感しきれないなぁと二人で話していた。見る意味がないわけではないが、あまり残るものが多くないように感じたのだ。
シュテファン寺院の後は、モーツァルトゆかりの地、フィガロハウス。もっとも月曜休館ということで、外側を眺めるだけにとどまってしまったのは少し残念。でも、こういう歴史的な建物でも仰々しい紹介がないのはウィーンだから、なのでしょうか。(それなりに大きな像などでも、ガイドブックに一言もないことは珍しくない)
ドイツ騎士団の館、釘の株の前を通り抜けて、ノイヤーマルクト広場のドンナーの泉を見物。四隅に置かれた男女の像が美しい。魚の口や水瓶の口から噴水が出るように仕組まれていて、よくできていると思った。 この泉のすぐ近くに皇帝納骨堂がある。建物の中に入って地下に降りていくと、鉄か青銅でできた柩がたくさん並んでいる。ハプスブルグ家代々の皇帝や王妃などの柩がここに集められているのだそう。でも、見つけた中で一番新しいものは1980年代に死亡したものだったりして....この人はもしかして、ハプスブルグ家の最後の直系とかそういう人だったのだろうか。

次の目的地は(歩いてもすぐだが)王宮。歴代皇帝の墓所を見てから王宮に行く、というルートになった。
ミヒャエル広場から門をくぐって王宮の中庭へ。何やら石畳の改修工事が進んでいて、やかましく感じられた。この道は馬車のルートでもあるらしく、しばしばかっぽかっぽと音をさせて二頭だての馬車が走り抜けていく。中世そのまま、という感じで、奇妙な感じがした。
もう一つ門をくぐると英雄広場。カール大帝の騎馬像(馬が両前足を挙げているのは珍しいとか)を眺める。王宮の中の広場、とはいうものの、時期のせいなのか緑の芝しかなく、華やかさには今一つ欠ける感じがする。掘り返したりしている跡もなかったから、ここはこういうところなのだろうか。
ハプスブルグ家のきらびやかな宝物類の展示がみたい、という母上様の希望があり、一度中庭に戻って宝物館へ行く。ま、ここは見る価値があるというか、庶民の手の届かないレベルの贅沢さにため息をつくしかないというか。何を見ても金銀ダイヤが埋め込まれているような気のする贅を尽くした品の数々をみるなんて、今後そうはないでしょうから。
この宝物館の展示の説明はドイツ語のみだが、どうも英語(?)での詳しい説明を出してくれる機械を無料で貸し出してくれるよう。かなりの人がそれを持って見物していた。

そろそろお腹が減ってきた、ということで、手近なカフェで昼食。その後、武器博物館と古楽器集庫館を見物。主には楽器の方をみて歩いたが、西洋の楽器がどのような変遷を経て来たかが実物を前に学べるというのはなかなか面白い。見学者が触ってみることができるものも一部にあった。
ここまで来て3時近く。夜はオペラ、ということにしていたので、体力温存のため宿へ一度戻ることにする。再びミヒャエル広場に戻ってシュテファン寺院へ....と思ったら、道を間違えてショッテン教会の方に出てしまう。ここの前では小さなマーケットが開かれていて、おみやげに使えそうなこまごましたものを売っていた。面白いと思ったのは卵の殻を使ったとおぼしい人形(ハンプティ・ダンプティみたいな奴)だったけれど、持って帰る途中で壊れそうな気がして断念した。

母上は宿で休憩、ということだったが、わたしは立見席のチケットの買い方などを調べるために国立オペラ座(StaatsOper)へ行く。この日一番苦労したのがここ。
結論から言えば、開場してからオペラ座の扉をくぐって中に入り、正面左の方にあるチケットブースに行くと買える。だが、オペラ座の建物の右側(東側)に前売りのチケット売り場はあるし、西側の方には国立劇場連盟のチケット売り場の表示があり、その一方で立見席売り場という表示はオペラ座の外側には見当たらない。いかにもチケット持ってますという感じの装った人々に混じってオペラ座の中に入り込むのにはちょっと抵抗があるかもしれない。
あとでガイドブックをみたら、この近辺にはカール広場だのカール教会だの、面白そうなものがいくつかあったので、早くチケットの買い方がわかればなあと後悔。あっちこっちの窓口の人に"Standplace-tickets?"などと聞いて回り、どこでも「ここじゃない、あっちだ」みたいなことを言われていた。 うろうろと迷っているときに、オペラ座から地下鉄のKarlsplatzにつながる地下道に行ってみたのだが、ここのトイレがなかなかあやしい。7ATS払わないと入れないが、男性用の方には中にオペラのポスターが張られていたりする。照明は赤っぽくてそれがさらにイイ雰囲気を出していると思う。女性用は少し違うようなのだが。

チケットの買い方がわからないままに一度宿へ戻り、母上を伴なって観劇に出発。宿の目の前のカフェで軽食を取ってから、オペラ座まで歩いた。
一通り窓口を見て回って、どこもしまっていることを確認し。最後の手段として中に入って係員に聞いたら「あっちの窓口だ」と教えられてようやく買うことができた。一人30ATSなり。
立見席に入ってみると、大学の帰りに寄ってみましたという風の若者やら、わたしたちと同様本場のオペラとやらを見に来ましたという感じの日本人やら、雑多な客層。3時間以上もあるオペラを立ち見するのだから若者がほとんどだろうと思うと、意外に中高年の人が多い。そういった人は慣れたもので、前奏曲の間や合唱の間などは段差などを利用して座っていて、主役のアリアなどが始まるとやおら立ち上がってじっくり聞いていたりした。開演前に外をうろうろしていたときも、ポスターをのぞき込んで行く人が少なからずいた。演目は日替りなので、昨日と今日とでは演目が違う。演目次第、歌手次第で聞きに来る人もそれなりにいるのかもしれない。
この日の演目はベルディの「マクベス」。わたしは筋も知らず、プログラムも買わないうちに開演してしまったので初めのうちは筋もわからずに茫然と聞いているしかなかった。それでも、遠目に眺める舞台の豪華さを鑑賞し、音楽に聞き入っているうちにあっというまに時間が過ぎた。幕間にプログラムを買ったら日本語で筋の紹介があったので、その後は筋を思い出しながら聞いていた。
退屈したら途中で出るつもりだったのだけれど、結局最後まで聞き入ってしまった。言葉はわからないけれど、一応はクラシック音楽をかじった身でもあり、それなりに楽しめた。

余談だが、母上はオペラ鑑賞と聞いて、正装が必要と思ったらしく着物を持って来ていた。それ自体は別によいと思うのだが、着物で立ち見をするのは無理だと思って止めさせた。結果としては多分それで正解で、席をキープしてならともかく、立ち見なら楽な格好がよいと思う。山登り用のコートというおよそ礼装とはかけ離れたものを羽織っていたわたしですら別に服装チェックなどは受けなかった(よほどひどければわからないが)ので、立ち続けられて、ちょっと座り込めるような服装が立ち見には適していると思う。

終演は10時過ぎ。クロークでコートを返してもらって外へ出ると、街灯が明るく、十分に歩いて帰れた。女性の一人歩きなどもそれなりにいるあたりを見ると、わりと治安はいいと思う。時間やホテルの位置にもよるが、それなりの通りに面していれば歩いていても大丈夫だと思う。

六日目(4月10日)

この日は比較的のんびり起きて、朝食に行く。前日はあまり人が多くなかった朝食の席だったけれど、この日は少しにぎやか。皆さんあまり朝は早くないようで。
この日の計画はマリアヒルファー通りでショッピングをして、シェーンブルン宮殿を見るというもの。旅程もだいぶ進んだので、おみやげを用意しようと思った、ということはある。

地下鉄の駅までいって24時間券を購入。まずはKarlsplatzまで。ここから歩きだしてSecession、Theater An der Wienを経由してマリアヒルファー通りへと抜けた。
セセッション前からの道は中央分離帯のようなところが広く取られていて、そこに屋台が店を出している。少しだけ見てみたけれど、なかなかあやしくて面白い。
マリアヒルファー通りはいってしまえばその辺の大都市の駅前商店街と大差ないようなところなのだけれど、見てみると日本にはないようなものも見つかるのでつい覗いてしまう。わたしは運動靴を一つ買い、母上は石のペンダントを数個買っていた。ものによっては似たようなものが日本でより安く売られているので、カードを使えば少しは得ができると思う。
軽く歩いているうちに腹が減って来たので、適当に選んだカフェに入る。Zieglergasseの駅の近くだったが、あんまり客が入っていなかったのはどうしたわけなんだろうか。そんなにひどいお店でもなかったと思うんだけどなぁ。

この後、ハイドンが住んだ家に作られているというハイドン博物館を見学。昼の間は閉まっていて、見ている間にも入って来た人はいなかった。人気ないのかなぁ、わたしは割と好きなんですけどね>ハイドン。
手紙やら自筆の楽譜やら肖像画やら、お約束の品々が並ぶ。気に入ったのは代表的な作品のいくつかを聞くことができるコーナー。オラトリオ「四季」の中の曲とか弦楽四重奏「皇帝」とかが聞けるようだった。「天地創造」の13番とかあったら真っ先に聞いたところだったけれど(謎爆)。
奥の方にはブラームスに関する展示もあったのだけれど、なぜそれがあるのかは謎のまま。案内人とおぼしいおっちゃんが影のように寄り添っていたのだけれど、ゲルマン風な表情というか、なんだか質問するのがはばかられるような雰囲気を漂わせているので、なにも聞かずに出て来てしまった。洗面台のようなものが展示されていたので「Hand wash?」と聞いたら「Yes」と応じてくれたので、聞けば話してくれたのかもしれないけれど。

その後は再び地下鉄で今度はシェーンブルン宮殿へ。
こちらはいわば離宮として整備されたらしく、花壇や石像などがふんだんにあってよい感じ。季節が少々早いので花に埋もれた宮殿を見ることはできなかったが、庭を整備しているらしき作業員の姿はたくさん見受けられた。
少し宮殿から離れると、未整備というか茂るにまかされたされたというか、とにかく雑木林といった感じの林が広がっている。まだ花壇が今一つ見栄えがしなかったこともあって、母上はこちらの方がお気に召したよう。小さなひな菊の花なども散見されて、それが美しかったということもある。
宮殿と相対するようにネプチューンの泉がある。中央にすっくとたつ海神ネプチューンの像、そして彼に仕えているように見える従者や侍女の姿、そして彼の乗騎であろう海馬。半馬半魚の像というのは初めてかもしれない。名前故に、という訳ではないが、印象に残った。
ネプチューンの泉からGloriotteまでは登りになっている。丘の上からはウィーンの街の西側が一望できて、なかなかの眺め。Gloriette自体は建物の一部という感じでなんだか中途半端なモニュメントになってしまっているけれど。
Glorietteの傍らのトイレの近く、そしてGlorietteからローマの遺跡(工事中だった....)へ降りて来る途中の道の二ヵ所でリスに出会った。かなり人に慣れた感じで、手を出すとすぐ近くまで寄ってきた。ナッツかなにか持っている人の手からナッツを取っていたりもしていたので、そうやって生きているのかもしれない。

観光の行程はこのあたりまでで切り上げ、Karlsplatzまで戻っておみやげ購入に移る。ちょっとしたチョコレートのたぐいを7・8箱、家族向けにワインを数本。
ワインはシュテファン寺院の北側にあるヴィノテークで買った。ガイドブックを読むと少々敷居の高い店に思えたが、ふらっと入って勝手に品定めして買っても大丈夫。ただし使えるカードが限られるよう(VISAは使えなかった)なので必要ならあらかじめ両替しておく必要がある。
チョコレートはホテル・ポストからホテル・オーストリア前へつながる通りをさらに進んだあたりにある安売りの店で買った。ここもカードは使えなかったが、店先の看板には「ウィーンで一番安い」みたいに書いてあったし、箱入りではなく袋詰めしたお菓子などもあったので一見の価値ありかも。

一通り買い物をした後で一度部屋へ戻り、夕食に。ウィーン料理を食べてはみたいものの、ろくに読めないドイツ語のメニューとにらめっこするのが面倒に思えて、ガイドブックに日本語メニューありと書いてあるバイスル「ミューラーバイスル」へ。英語のメニューがあるところだとかなりあるようなのだが、わたしはともかく母上がどちらもまったくだめなので、いちいち説明するのがうっとおしいという理由であったりする。
メニューは日本語でも注文は英語(もしくはドイツ語)ですることになる。この旅の中で唯一酒を口にしたのはここでだったのだが、ワインを頼もうとして「何になさいますか?」みたいに聞かれて「白」としか答えられなかった無知なわたし。もちょっと詳しいと幸せになれたかも。
旅のあいだを通して、こちらが名乗らずとも日本人と判断されたことは数多い。ここのお店でも、なにも言わずに日本語メニューが出て来た。わたしの眼から見ると、日本人と韓国人・中国人とは喋っている言葉でしか区別ができないのだけれど、何か特徴でもあるのだろうか。
料理は味・量ともに申し分なし。少々アルコールも回って、出るころには十分幸せになっていた。

七日目(4月11日)

この日は起きて朝食後、ホテルをチェックアウトしてウィーン中央駅へ向かい、列車に乗って空港へ。とくにトラブルもなく帰国の途についた。
トラブルらしいトラブルというと、ウィーンでの搭乗の際に搭乗券を出したら「ticketを見せろ」と言われて戸惑ったことくらいだろうか。モスクワではtransfer(乗り換え)だけなのでロシアのビザがなく、それで呼び止められたらしい。成田までのticketを見せたら納得してくれた。航空券がticket、搭乗券がboarding passという風に呼ばれるということを初めて知った。

機中で「1809」(佐藤亜紀/文春文庫)と「人喰い病」(石黒賢一/ハルキ文庫)読了。前者はウィーン観光ガイドにするつもりで読み始めたのだけれど、結局読了は旅の終わりになってしまった。とはいえ、シュテファン寺院やバジリスク、シェーンブルンなどの地名が出て来て、少しは臨場感を持って読むことができる。
登場人物ではパスキ大尉がお気に入り。性格が似ているのか、行動が理解しやすい。――けど、幸せになれる性格とは言いがたい気もする。危険なゲームに加わってしまうような性格だもの。
「人喰い病」は医学系サスペンス短編集、とでもいおうか。「雪女」「人喰い病」「水蛇」「蜂」の四編。前二編は病気を一つメインに据えて、その姿を解き明かしていくさまを描く物語で、後二編はタイトルの生物と向き合う人の心理を描いていく物語。「蜂」などは一種強迫神経症の精神状態を描いているようにも思える。

帰路は(慣れたということもあると思うけれど)こともなく到着。無事に帰宅することができた。

終わりに

旅程を終えてだいぶたち、その間に国家試験の発表もあって、無事に合格していた。
仕事に追われて忙しい中、今こうして振り返ると、とてもいい経験をすることができたな、と思う。何よりも自分で海外旅行をお膳立てできたこと、何とか行って帰ってこれたということが大きい。そして、クラクフ・ウィーン・アウシュヴィッツといった街を見て、いろいろ考えることができたということ。
いつか余裕ができたら、また別な街を訪れてみたいと思うし、クラクフにしてもウィーンにしても、再訪する価値のある街だと思った。それがいつのことかは、まったくわからないけれども。


Written by Genesis
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