書評:「サブカルチャー反戦論」

「サブカルチャー反戦論」大塚英志著/角川書店
ISBN: 4-04-883726-5  定価1100円

わたしは、自分自身を平和主義者をもって任じている。憲法への態度を問われれば、護憲論者であると答える。
この本を読みながら、自分は基本的には大塚さんと同じような考えを持っているのだ、と思った。自分の意見と同じようなことを書いている本を紹介するとき、単に褒めてその通りと書くだけならあまり意味のない文章だとは思うのだけれど、一つの意見表明のつもりで記してみたい。

章立ては以下の通り。

  1. 多重人格探偵サイコと突然の平和論
  2. キャラクター小説はいかに戦争を語ればいいのか
  3. 「文学」はいかに戦争を語らなかったか
  4. 「戦時下」に憲法前文はいかに語られてしまったか
  5. 戦後民主主義のリハビリテーション(戦争篇)

これに、前書きに相当するような「何故、物書きは『戦時下』に語らなくてはならないのか」と、後書きがつく。
このうちのいくつかは著者の持つ連載枠に(かなりゲリラ的に)押し込まれた文章であり、いくつかは「書かせて欲しい」と出版社に掛け合って掲載された文章である(らしい)。

「現在」は「戦時下」にある。
まず、この書き出しがずしんと来た。今、日本の軍隊がどこかの国の軍隊とやり合っている、というわけではない。けれども、「戦争」に日本の国民が協力しなければならない、というムードが形成されている(あるいはされつつある)状態は、実際に熱い戦争が繰り広げられているか否かにかかわらず、戦時下と呼べるのではないかという提起はとても納得できるものだった。
「戦時下」に、わたしたちは何をなすべきなのだろうか。──答えから書けば、エラい物書きの先生方や新聞記者やテレビの画面が封じてしまっている「戦争はイヤ」という声を、しっかり自分で発することなのではないか、と大塚さんは書いている。
「戦時下」にそういう声を発することはとても難しいことだと思う。たとえばそんな話を友達にしたとして、その友達がたとえば小林よ○のりの愛読者だとしたら、「おまえ何言ってんだ」と、個と公についての議論が始まってしまって疲れてしまうかもしれない。あるいは「そーゆーむずかしいこと、よくわかんないんだよねー」と、場の雰囲気が白けてしまうかもしれない。実際にそうならずとも、そういうことを考えてしまえば声に出すことも憚られてしまうと思う。
でも、そこで一声を発すること、そしてその友達からの反応を受けて、また考えること。それは、わたしたちが普段できそうでできない「反戦運動」なのではないか、とわたしは思う。

五章のタイトルの中で、「リハビリテーション」という言葉が使われている。大塚さんは文中で何も触れていないが、リハビリテーションの原義が「復権」という意味であることを考えると、なかなか意味深なタイトルだな、と思う。
戦後、民主主義も平和主義も、いろいろな形で貶められてきたように感じる。制度の運用に伴う問題点が制度の根幹の問題のようにすり替えられてきたり、まったく逆行する政策を平和や民主主義の名のもとに実行したり。そして今、「自衛隊と九条の乖離をどう説明するのか」と、自衛隊を作った側の人々が叫んでいたりする。アメリカが武力による紛争解決路線をとっているとき、それに理解を示し協力することしか考えられないような人々が、「我こそは憲法前文に示した"国際平和"の精神を生かそうとするもの」と胸を張っていたりする。
戦争によって紛争を解決し、他国の人々に恐怖と欠乏を強いることをやめるため、戦争をしないと決めたのが戦後の出発点であったのだと思う。そして、為政者の行為が国民を不幸にすることがないように、民主主義の国を作ろうと決めたのだ。
そして、同時に「国民の不断の努力によって」自由と権利を守らなければならないと定めている。戦争の危険が現実のものとなろうとしているとき、この12条の規定がとても重く思えてくる。「リハビリテーション」は、もう一度原点に立ち返って「反戦の言葉」を組み立て直すことではないだろうかと思えた。

第四章で、日本国憲法前文がもともとGHQから示されたもので、その時は英文であったという話が出てくる。前文を指して、そこに示された理想はともかく日本語として分かりにくい、筋が通っていない等の評価もある。
では、もともとのGHQ案を直訳したらどうなるか。文が悪いのは、案の時点でこなれていなかったのか、訳の悪さなのか。文中での結論は訳すに当たってのさまざまな思惑が反映しているのだということなのだが。一度原文を見てみたいと思った。


Written by Genesis
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