デーテーペーな1日

1997.10.16~31

日記関係の発言はこちらで。
10月16日(Thu)
 何故か午後からは子供達とお買物に。それも「たまごっち」買いに。とほほ。
 今更「たまごっち」求めてあちこちウロウロと云うのも、いかにも我家らしいと言えば実にその通りかもしれませんが、チラシに「たまごっち」の売出しが出ていたりすると仕方がない・・・がはははh、実は先日来から秘かに探していたという噂も。

 で、子供達が学校から帰ってそうそうに車でお出かけする事にしました。

 どうやら仙台方面にある「バッタ屋」のチラシで、しかも展示会場を借りての期間限定の売出しと言う事で、どう考えても怪しすぎるんですが・・・あぁ、やっぱりなぁ。最近出来たばかりの真新しいイベント会場の1フロアーにビンボーくさいテーブル並べてビンボーくさい「バッタ物」がパラパラと並んでるだけでした。潰れた段ボールが山積みされただけで、妙に広い会場はなんだか空気がうすら寒いなぁ。
 案の定、「たまごっち」は売り切れ。客引きの為だけの目玉商品だった模様です。う〜ん、多摩地区ではいまだにこんな状態なんですねぇ。我家同様で、今更のようにジタバタしているバカ親がまだまだ多いようです。
 ふと見ると段ボール箱の中に何やらそれらしいモノが・・・「カエル飼育ゲーム」だの、「恐竜ペット」って・・・がはははh、いかにもチープなパッケージのこれが、いわゆるたまごっちの偽物のようです。なんと1ヶ498円。いかにもフェイクな値段。うん、これで十分でしょう。
 子供達はなんとなく釈然としない面もちですが、どうせ中味に大した違いはないんでしょう。プレミアつくようなモノを買わされるのはいい加減ウンザリですが、「バッタ物」買うのは昔から大好きな僕はなんだか得した気分。ビンボーくさい我家にはこれがピッタリですって。

 なんだかんだ言いながら、けっこう喜んでるらしい子供達・・・やはり我家の血を引く安物好きと言うヤツでしょうか。ずいぶん安上がりでなにかと親思いなのかもしれません。


10月17日(Fri)
 昨日からの話題と云えば、やはり「臓器移植法」の施行でしょうか。

 日本の医療というものにぬきがたい不信感を持つ人間としては、今回の臓器移植法そのものが、結局は患者や家族の思いを置去りにしたままの医師向けの法律としか思えないようです。移植医が患者のための有用な治療法だと強弁すればするほど、其処に医師の側の思惑やら野心が匂って、とても素直に彼らの言葉を聞くことが出来ないのです。現在の医療では、移植でしか救うことの出来ない患者が確かに存在するのでしょう。そうした患者やその家族にとってはまさに臓器移植は生死にかかわる問題だからこそ、真剣でかつ切実な問題の筈です。その患者団体である日本移植者協議会自体が、「(同法は)移植医療を待望む患者、家族に希望を与える内容でない。」と声明する処こそ、実際の患者・家族不在のまま進められた臓器移植法の根元的問題が計らずも露呈したと言う事なのでしょう。
 人間の「死」というものに対して迂闊な認識しか持ち得ない医師が多すぎるようです。ひたすら「病気」を治療することを目的とするあまり、他ならぬ「人間」の存在を忘れた医療は、結局の処「やまい」は癒えても「ひと」は深く絶望したままに忘れ去られているとしか思えないような現実が多すぎるような気がします。

 医師達が脳死ははたして人の死かとケンケンガクガクの論争をする前提として、つまりは心臓移植のためには鼓動している心臓を取出したいという欲望をあらわにしない限り、自由な議論は進むことはないでしょう。新鮮な他者の臓器が必要だと患者や家族が真正面から訴えて初めて「臓器移植」のタブーから開放されるのだと、僕は思います。
 一片の法律で人間の死が規定できると考える人間自体が、まず己の不明を恥じるべきでしょう。

 僕自身は無用となった肉体を誰かが利用する事に特別のタブーはありません。人間は生きているうちからそうやって、他者から奪う事ばかり考えてきた存在だと思うから。
 ただし、その事が「罪」だとは思いませんが「悲劇」だとは考えています。


10月18日(Sat)
 午前中は「授業参観」、午後からはPTAの「運営委員会」で、それが終ると今度はクラスの役員のお母さん達と先生が集って今後の予定の打ち合わせという名の「雑談会」が延々夕方5時過ぎまで・・・う〜む、まるまる1日を一銭にもならないことに費やしてしまいました。
 ま、最近はお母さん達との雑談もけっこう楽しめたりするテロリンオヤヂは、基本的におしゃべりな人間なのですが、そんな席で二人して不明な日記ネタで無闇に盛上がる担任教師とPTA役員の父というものは如何なものかと・・・ねぇ、秀島先生。

 ちょっとお母さん連中を調子に乗せすぎたのかも知れません。2学期の後半から3学期にかけて、何やら予定がいっぱい。それもPTAとは名ばかりのお遊びの企画ばかり(企画なのか?)なのは、まぁ僕自身の責任が大半かも知れません。うっかり口を滑らせたばっかりになにかと雑用が増えそうなのは自業自得とはいえ、すっかりノリノリのお母さん達はやれ忘年会やら新年会の予定まで言い出す始末で、もはや誰にも止められません。羞恥心を忘れたオバサンパワーはまさに恐るべき存在です。迂闊にそんな方々を乗せるものじゃありません。来年は自粛モードでぜひひとつ。
 で、本日決った事はといえば、高尾山へのハイキングやら年末の餅つき大会にホテルのランチコースのお食事会って・・・まるで社内の組合行事か学生サークルのノリで、皆さんすっかりその気です。えぇ、ネタ振りは大体僕なんですが・・・とほほ。ま、もうしばらくは頑張るしかないようです。

 がはははh、最近僕の日記に登場する機会もめっきり増えた秀島先生。Web日記を公開する日も近いような気がします。学級便りの中での「給食イチャモンネタ」はけっこう笑えます。


10月19日(Sun)
 こんな時間になるんなら予定日記を書いておくんでした・・・夕方から外出したのは良いけど、いろいろとお話ししているうちにうっかり日付も変ってしまったようです。慌てて帰ってきたものの、仕方がないのでカタチばかりでも本日の日記は書いておきますか。

 そうか、今日は日曜だったんですね。何時ものようにのんびり寝ているつもりが、朝っぱらからお仕事の電話で起されてあたふたと仕事するハメに。午後からは奥さんと子供達は近所の市民会館で何やらバレーの発表会があるようで、そちらの鑑賞などに出かけると言うので車で送迎えなど。う〜ん、参加メンバーでなくてただの観客で良かったです。しかし相変らずビンボーくさい市民会館にビンボーくさい家族連れが大挙押しかけているようです。やっぱり入場無料だからなぁ。これが100円でも入場料を取ったら、関係者以外誰一人来ないのでしょう。
 帰りに迎えに行って最後のフィナーレだけ見たんですが・・・なんだかオバサンが踊ってるぞ〜 う〜ん、オバサンのダイエット体操みたいなもの見せられてもなぁ。

 スマンす、こんな手抜き日記で。なんだかBOWDO書いてる気分ですが、たまにはこんな日もあります。はい、自分の為だけに書いてますから、ま、こんなもんでしょう。


10月20日(Mon)
 我ながら不思議で、何故そうなのかいつも腑に落ちないのですが・・・いきつけの書店で、何時もの小柄な彼女が平積みの新刊書などを並べ直しているのに出会ったりするとドキドキしたりする訳です。たまたまレジに立っていたりして、彼女に何冊かの本を手渡すときになんとなく幸せな気分になれると云うのも、いい年したオヤヂの振るまいとしては情けない限りです。
 ま、それ以上なにがあると云う訳でもないのがいささか不甲斐ない処ですが、だからどうしたいのかと聞かれても僕は困ってしまう訳です。「ロリコン」というものとも少し違っているようで、体のバランスはそのままで、純粋に大人のミニチュアみたいにな女性に妙に惹かれてしまうようですが、どうもトラウマ系の不明な情熱がその原因なのかも知れませんが、今の処は自分でもよく判りません。要するに「すき・キライ」だけの問題なのでしょうが、フロイト流の心理学ならばもう少しもったいぶった説明を付けてくれるような気がします。

 「こびとフェチ」な話題はまぁほどほどにしておきますか。

 大型書店といっても我家の近所のここは雑誌と文庫のスペースばかりで、新刊書の棚などはほとんどおざなりですねぇ。もっとも新刊書なんてめったに買わないので大抵は素通りですが。はい、僕はもっぱら文庫専門です。しかしそこもジュニア小説だかマンガ文庫だかが大幅に占領していて中味は貧弱そのもの。
 で、なにかと村上春樹が話題になっていると思ったら、要するに文庫本になって買いやすく何処の書店でも大量に目に付くようになったからと言う事なんですねぇ。平積みのコーナーになんだか村上春樹がいっぱい。う〜ん、彼の「泣かせどころのうまさ」というのはまさに絶品ですから、そのあたりの「職人芸の世界」みたいな雰囲気が彼を敬遠する部分なんですが・・・えぇ、結構泣けたりする自分自身がイヤなだけなんです。

 結局はなにも買わずじまいでした。最近はそんな事が多いようです。活字を読む時間がかなり減っている模様。

 ここの処は意外と早寝かも。といっても3時に寝るのを「早寝」と言い張るのはかなり苦しいかもしれませんが、これが僕の精一杯です・・・って、誰も褒める人はいないでしょうなぁ。


10月21日(Tue)
 竹井さんの事を笑っていられなくなってきました・・・う〜ん、マジで仕事に追われております。

 何れも納期のまるで無い仕事ばかりで、マジメに仕事しないと本当にえらい事になる可能性大です。日記巡りも日中は程々にしないといけないようで、本日なんゾは実に真面目に仕事ばかりの一日でしたなぁ。 ちょっと寂しいのか?
 で、仕事ばっかりやってると肝心の日記のネタが何もないのが辛いところです。お勉強ならガシガシでも良いんでしょうし、なんとなく有益な事やってるような錯覚に酔えたりするんでしょうが、お仕事はそんな訳にもいかなくて、僕にとっては1ミリも興味のない不動産のパンフレットやら仏壇メーカーの新聞チラシに追われる日常はビンボーくさくてヤですが、ま、贅沢を言っていられる立場にないのは十分承知してます。

 昨夜の「胃の痛み」のせいでずいぶん早寝しましたが、朝にはなんとか収っていた模様。なんとなく胃の存在を意識して、おそるおそるコーヒー飲んだりしてますが今の処はどこも痛みは無さそうです。突然に痛んでいつの間にか収ってるというのは、まぁ、神経性の胃炎なんでしょうが・・・本人にそんなに神経病むような原因が思い当らないのが不思議。ストレスもないと思うんだけどなぁ。
 不明な情熱のはけ口に迷って、日々ココロが痛んでいるんでしょうか?きゃー。えち。<"えち"なのか?

 仕事ばかりの1日というのも実につまらん生活です。程々に仕事してそれなりの貧しさに満足していれば良いものを、つい己の欲望に負けてあれこれと不要なものを身につけてしまっては、自らがまとったモノのわずらわしさにウンザリする・・・捨てることのできないモノばかりが増えていく日常は、そのうち破錠しないんでしょうか?


10月22日(Wed)
 何故か焦燥感に追われるような一日でした。

 自分の気持に正直に生きようなどと・・・そんな大ウソは言い飽きてしまった人間にとって、最早「あなた」に告げる言葉が見当らないことが、ただ残念なだけなのです。言葉を重ねれば重ねるほどに自らの空虚さが身にしみて、呆然と立ち尽すことしかできない日々のようです。
 せめて夢の中ででも、「あなた」に何かしら言葉をかけてみたいと思いながら、日頃妄想がちな人間はあまり「夢」みることがないというのは、いかなる皮肉なのか・・・あるいは、何かしらの寓意がそこにはあるのかも知れません。そう、僕自身にも判然とはしませんが、本人に自覚するものがあるようです。
 小さい頃くり返し見た「悪夢」が本当に恐ろしくて、眠りにつく前に僕は、布団の中で必死になってあらゆる神や仏に祈ったものでした。

 なにを祈るかも知らず、誰に祈ればよいのかもわからぬままに・・・

 そして目覚めてもなお「悪夢」が依然として続くことに逃場を失った僕は、この世界をあり得ない「ナニか不可思議なもの」「自分とは無縁なもの」と認識することで、その「悪夢」に耐える方法を自分なりにあみだしていたようです。うす皮一枚の曖昧さの裡に逃込むことで僕はその「悪夢」から逃れられたのですが、それと一緒に幸せな夢までも見失ってしまったことに気がついたときには、すでに僕は夢をみること自体を忘れてしまったようです。

 そんな訳で、今夜も僕は電子の海に漂う「あなた」の、その不確かな横顔にそっと口づける事しかできないようです。えぇ、夢をみる方法をなんとか思いだそうとはしているのですが・・・

 眠ることを恐れるというのは、つまりは夢を見ることを恐れているのかも知れません。自らが望むものが夢の正体だとするなら、つまりは僕は僕自身の願望を恐れているのでしょう。


10月23日(Thu)
ぎゃー。
 マジで死にかかってます。いえいえ、先日来の「胃の痛み」ではなくてお仕事で。
 いつの間にか胃の痛みを忘れるほどに仕事に追いまくられる1日と云うのも、それはそれでビンボーくさいなぁ。まぁ、こんな日もたまにはあるのかと思っていると、どうやら毎週襲ってくるような気配が・・・もう一回「Font SIZE="7"」で叫びたい気分ですが、そんな元気も残っていないようです。本当はこんな日記も書いてるのは反則なんです。えぇ、今晩じゅうかかって僕の仕事のあがりを待っている人が何人かいる筈。がはははh、バレたら怒られるって。

 そんな訳でカタチだけの更新です。皆さんもたまには早く寝るようにね。僕はもう一晩徹夜か・・・とほほ。

 更新時間がいつもより遅いと、すわ!何か有ったのか、と思われがちな人間なので一応ご報告だけの更新です。う〜ん、BOWDOの更新はどうしようかなぁ。たぶんこっち以上に手抜き日記になる可能性大の上に、更新時間も遅くなるのかな。でも夜中にこっそり日記巡りだけは止められないんですよねぇ、これが。


10月24日(Fri)
 がはははh、どうやら正美は例の「偽たまごっち」を買った日から飼育日記をつけ始めてるようです。それもイラスト入りで。

 まったくなぁ・・・日記好きというのは遺伝するものでしょうか? たぶん父親がWeb日記にはまっているなどとは彼女は知らないはずです。夏休みのお約束の「絵日記」は最近の小学校では宿題にならないようで、今年の夏はそれらしいモノはあまり書いてなかったようなので、そこからの連想という訳でも無さそうです。
 えぇ、積極的に日記を書くように勧めたこともないので本人が好きでやっているようですが、だんだんエスカレートしてきて、その裡に日記猿人最年少登録者としてデビューしたりするのは・・・う〜ん、それはカンベンして。オランダ日記の伊藤さんに続いての親子日記はご夫婦日記以上に恥ずかしいかも。もっとも、大きくなった子供達が父親のこんな日記を読直すってのも相当に恥ずかしいですが。
 ま、あんまり面白い「日記」書いたときは、いつものようにこっちの方で無断引用でもやりましょう。今の処はやっと「偽タマゴッチ」が手に入った喜びだけであまり面白くないんですが、口語体で読む人間に語りかけるような調子が何やら気色わるかったりします。そのあたりも父親似だとするなら、遺伝というモノはなかなかに罪作りな奴です。<"罪"なのか?

 仕事はやっと一段落。少しホッとしてますが、来週もやっぱりこんな調子かもしれません。ま、仕事が無くてあたふたするよりはマシなんでしょうが、仕事に追われっぱなしてのもビンボーくさいから、仕事に関しては僕は程々で結構です。


10月25日(Sat)
 う〜ん、せっかくカレー食べに行こうと思ったのに、冷たいんだからぁ・・・がはははh、不明な日記ネタはあっちの方にでも書くことにしますが、しかしまぁ、電話口での彼は相当に弱まってたゾ。

 そんな訳で「無理矢理カレー食べに行くぞオフミ」がキャンセルされてしまったので、仕方がない・・・家族サービスにでも出かけますか。
 さて、どこへ出かけるかと、車に乗込んでから考えるというのもいい加減な話しですが、そんな事はよくあったりします。
 なんとなく幹線道路走りながらこっち方面にはなにかあったかなぁ?・・・まぁ大抵は近所のお手軽な公園やらデパートだったりするのですが、そんな我家のお手軽お出かけポイントのひとつ「羽村市動物公園」に行くことになんとなく決った模様です。
 人口数万人規模の市営動物園と聞くだけでそのビンボー臭さが想像つく程度、いにしえの移動動物園に毛が生えた程度かも。と言ってもさすがに移動動物園の実際を見たことはありませんが。
 普通の動物園の人気者のゴリラやライオンは勿論いません。動物園らしい生き物と言えばキリンとシマウマぐらいかも。後はちょっとしたペットショップでも売っているような動物達ばかり。家庭的と言えば言えなくもないんでしょうが、僕などはひたすらビンボーくさいと思うわけです。子供達が生れてからもう何回行ったことやら、親の方はウンザリしてますが、子供達はうさぎやひよこを実際に抱っこできるコーナーがやたらと好きで、特に正美などはいつまでもひよこを掌の中に抱いて飽きることが無いようです。
 生後1週間程度のひよこが数十羽、囲いの中でてんでに子供達のオモチャになってます。中には1才ぐらいの小さな子もいて、これは完全に動くぬいぐるみ状態で、いつ握りつぶすかと端で見ている人間は実に気がかりなんですが、肝心の親の方が「ダメよ〜、○○ちゃん」と言ったのんびりした様子で・・・まぁ、世の中にはいろんな人がいますから。
 子供達の情操教育だかなんだかの為に握りつぶされていくヒヨコ達の「イノチ」なんてモノは、ほとんど無価値だと云う事なんでしょうが、「イノチ」の価値を教えるのに「イノチ」をもってするというのはあまりにも形容矛盾に満ちているなぁと思いながら、それこそが「イノチ」の実体なのかと妙に納得したりするのも、それはそれでウンザリかも。

 帰ってくると「オフミ好き」な方から予定変更は如何と、お誘いのメールが。一旦帰ってくるともう出かけるのは億劫だなぁ・・・相手も相手だしなぁ・・・八王子だしなぁ・・・なんかついこの間もこんなこと書いてたような気がします。


10月26日(Sun)
 
悪意

 頭の中でいつもいつも囁き続ける「ヤツ」のせいで、最近の僕は少しおかしい。なんだか難しいことをブツブツと呟くばかりで、僕にはまるで理解できないけど・・・僕自身の頭の中から聞えることには間違いない。例えばこんな具合・・・

 罪と罰・・・およそ此の世の中に罪はあってもすでに罰は存在しない。神が死に絶えた現代、最早因果律は存在し得ず、罪は罪のまま罰は罰のままに、ただ無表情にそこかしこに氾濫しているだけ。
 死ぬために生れてきたとしか思えない、サバンナの子供達は、夜の闇の中でその闇よりも深い瞳の奥に空虚を浮べたまま、今夜もひっそりと自らの「死」をただ見つめている。
 無影灯に照らされた手術台の上では、子宮の奥深くに差込まれたかぎ爪が胎児を引裂き、何やら得体の知れない厄介ごとのひとつとして機械的に処理される。彼らの痕跡は赤黒く汚れた脱脂綿以外にはきれいさっぱりかき消されて、その後には次の厄介ごとが運び込まれてくる。
 ただ偶然のようにまき散らされるばかりの無意味な「死」を死んでいく子供達には、その事の理不尽さを理解する時間さえも与えらず、抗議の叫びすらとりあげられたままというのは、いかなるモノの悪意なのか? そう・・・「悪意」こそが神の死滅した現代にあって唯一残された因果律の回復のための手段なのだ。

 僕には結局「ヤツ」の言葉は何ひとつ理解できなかった。ただ、「因果律の回復」の為の手段についてだけはハッキリと分った。そう・・・僕には貯水塔に続くあの急な石畳の道の幻が今もハッキリと見えていた。

 いつまでも同じ事にこだわるというのも、まぁこれは僕自身の性格的な問題なのでしょう。理解しがたいモノをなんとか理解しようとするのですが、結局は徒労のままのようです。あまり意味のある行為とも思えませんが。


10月27日(Mon)
 昨夜は午後10時過ぎなんて驚異的に早い時間に寝てしまいました。最近特にネムネムのようですが、それにしてもガキみたいな就寝時間ですなぁ。
 結局夜中の3時に目が覚めてしまい、お約束の日記巡りとBOWDOの更新はいつも通りでした。うん、早めに寝て夜中に日記巡りするのもイイかもしれませんが・・・やっぱり「出遅れ感」みたいなモノはありますね。皆さんの日記はもうアップされた後で、ひとり夜中に日記巡りしてもなんだか気分的に盛上がりません。<寂しいのか?

 ま、その後もベットに潜り込んだまま、朝まで文庫本読んでました。「村上龍」のたたみかけるような言葉と、うねるような文体は僕自身の生理にピッタリとはまってしまったようです。
 「5分後の世界」・・・例によって短すぎるのが欠点で、少なくともあの3倍位は書込まないと彼の意図したモノは伝わらないような気がしますが、まぁシリーズを通して読む連作と考えればいいのかも知れません。名作とも傑作とも呼べそうもない作品なんでしょうが、僕にとって心地よい文体と言うものをいつも意識させられる作家ではあります。粘着質の文章を書く人と云うのにへきへきとさせられながら、ある種の畏敬の念を抱いてしまうのは、僕自身にそうしたものがまるで備わっていないからでしょう。
 てな事を書いてますが、彼の小説を真面目に読むようになったのは最近のことです。ただの流行作家と、ずっと毛嫌いしているだけで真面目に読んだことがほとんどありませんでした。
 そういえば、もう一人の流行作家 「村上春樹」はどうしようかなぁ・・・と、現在思案中。

 珍しく書評日記っぽくなってしまいましたが・・・書評日記と言えば、最近行方不明の彼はどうしていることやら。メールすればいいんでしょうが、こんな時に何故かメールが書けないのが我ながら不思議です。余計なメールならいくらでも書けるのに、簡単な近況見舞いが書けないというのも因果な性分です。


10月28日(Tue)
 来月は子供達の誕生日と言う事で、何カ月も前から「今年の誕生日プレゼントはマウンテンバイクがイイ!」と一人ウルサイのが麻美のほうです。友人やらハヤリものに影響されやすい彼女の言う事をいちいち聞いてるときりがないんですが、どうやら友人が乗っている自転車が気になって仕方がないようです。
 確かに、小学校入学前から乗っている子供達の自転車は余りにも小さすぎて、そろそろ買替えないといけないなと思いながら、何やら誕生日のプレゼントが当然のような顔されると、へそ曲りな父親は「あぁ、そうかい」とはなかなか返事がしづらいものです。う〜ん、自分の子供相手に意地張ってもしょうがないと思うけど・・・
 正美の方は普通の自転車でイイけど、ほんとは一輪車も欲しいとか・・・だから、誕生日だからってどうして親が子供に何か買わなきゃいけないのか論理的に説明せよ! 納得できる説明が成されれば考えても良いけど。
 がはははh、7才の子供にずいぶんと大人げないですなぁ。要はケチ臭いだけなんですが、自転車はまだしも、あの「一輪車」っていったい乗れたからって何が嬉しいわけ? よく学校ぐるみで一輪車に取りくむ小学校の話題がローカルニュースなどに登場することがあって、どうやら学校の中などでは人気のアイテムのようです。まぁ、へっぴり腰で校庭をフラフラ走りまわるのは良いけど、アレで路上を走られると危なくてしょうがないんですが。うっかりそんなガキを車でひき殺した日には怒られるって。<怒られるだけじゃ済まないって!

 結局、自転車は買うことになるんでしょうし、何やらお誕生会も我家で開催される模様です。えぇ、実のことを言えば毎年開催してます。2、3年前なんてお呼ばれした友達に父親が手品披露したりして(きゃー。)、実に胡散臭いかぎりでしたなぁ。

 今日は一日中ふるえる程寒かったなぁ・・・そろそろストーブ出さなきゃいけないようです。日当りが悪い1階の事務所なんて特にこれからの季節は寒さが堪えます。
 なんだか暖かいものが恋しくて、珈琲ばかり飲んでます。あぁ、誰か僕の凍えたココロを暖めて・・・なんちて、


10月29日(Wed)
 何年も前から買え買えとうるさかったのですが、ホットカーペットっていう商品の、あのビンボー臭い思想が僕は気に入らない訳です。
 2帖程のスペースだけを電気でこそこそ暖めて、部屋の温度に関しては我関せずと云うのが先ず、いさぎよくないでしょう。猫みたいにその上でだらしなく寝転がってる姿も見苦しい限りだし、長く座ってるとお尻だけが熱くて実に気色がわるいんです。日本人ってのはクソ寒い部屋で縮こまって生活するというパターンが平安時代以来長く続きすぎたようで、どうにも冬場の暖房に関してビンボー臭いです。
 アラスカのように寒冷地では、部屋の中では汗ばむほどに暖房が効いていないと承知しないようで、日常的な室温に関しては日本などよりよっぱど温かいでしょう。日本でも北海道や東北などはそうですよね。まぁ、そうでなければ生活できないほど外の世界が凍てついているというのがその理由なんでしょうが。恐らく家庭の中全般の平均室温なんて、そうした雪国より関東や関西の方がずっと寒いような気がします。
 そんな訳で、我家ではいままでストーブだけの生活だったのですが、子供達や奥さんが朝起きたときに足が冷たいと、毎年毎年大騒ぎするので、仕方がない・・・近所のディスカウントショップで、どこ製とも知れぬ怪しいメーカーのホットカーペットを買ってきました。はい、我家恒例の「バッタもん」家電製品です。

 で、さっそくソファーの前に敷いてスイッチ入れてみると・・・あぁ、その上で寝っころがってるとポカポカして気持いいなぁ。

 ストーブも出しました。灯油もガソリンスタンドで買ってきて、これで我家も冬支度ですか。
 しかしなぁ、今年って「残暑」と呼べる季節がありましたっけ? なんだかいきなり「夏」から「秋」に一足飛びだったような気がします。年々季節感がハッキリしなくなっているのかも。


10月30日(Thu)
 昨日はいきなり10通以上も念写メールが届いてドッキリ。
 しかも、差出人が差出人ですから・・・また何か怒られるような事でも書いて、てっきりこれは怒りの念写なのかと、慌ててお返事などを。

 なにか・・・僕はまたマズイ事でも書いてしまいましたでしょうか?アレとかコレの事とかでしょうか?色々ありすぎて、にわかには特定できませんてば。<それはそれで情けないゾ。

 う〜ん、最近またもや腐ってると評判のbekkoameはメールサーバーまで不調のようで、やっとお返事が届いたのは今朝になってから。あぁ、さしたる問題ではなかったようです。ホッと一息。
 bekkoameのサーバーは、一時は調子良かったんですが、最近は11時以降なんて、またもや死んでる事の方が多くないですか? その上メールサーバまでダメだとなると、こんなプロバイダと契約していること自体が自らのアホさ加減を天下に広言してるようなものかも。何かというとマスコミに登場するあの社長がまず胡散臭いよなぁ。ペテン師が思いがけず大金掴んでまい上がってる風情がビンボー臭いです。ファック。<まねし。
 とにかく、あんな処はさっさと解約してメインは別のプロバイダにしましょうよ。少なくともBekkoameよりましな処はいっぱいある筈です。あ、解約の電話は受付の女の子にはなんの権限もないので、ぜひ直属の男性社員に替ってもらいましょう。うるさい客だと認定されると入会金が全額戻ってくることもあると思います。えぇ、僕の場合は全額戻ってきました。もっとも解約から1年後に、契約もしていないのに更新料を引き落されてましたけど。<大激怒! 

 私信ばっかり・・・そんな事はメールでやれよと言われそうですが、メールはメール、私信日記は私信日記でそれなりのお楽しのひとつなんです。はい、何かと楽しみの少ない僕の人生に免じてぜひひとつ。


10月31日(Fri)
 子供を失った母親の言葉に何故かくも惹かれるのか・・・何かしら他者の不幸に乗じて己の安泰を再確認するような、そんな後ろめたさに包まれながら、やはり僕はそうした理不尽な人生に向合うことを余儀なくされた人達の言葉が胸にしみる訳です。
 たまたま見たテレビから流れてきた、そんな母親たちの自問とも独り言とも付かぬ言葉の裡に秘められた人間のココロの有様が、とても貴重なものに思えるのでした。

 親にとって我が子が不治の病に犯されることほど理不尽に思える事はないでしょう。何故うちの子なのか?・・・隣家の子供ではなく、地球の裏側で生れた見も知らぬ国の子供でもなく、他ならぬ我が子が何故幼いままに死なねばならないのか・・・むろんそんな疑問に答えがある筈もなく、永遠の疑問に自分なりの回答を見つけるために、人は一途にその事を思い悩みつづけるしかないのでしょう。子供への過度な治療が結局は苦しみを長引かせるだけの苦行でしかなかったのかと、ひたすら自らを責める母親の姿にも、やはりどこまでいっても答えは与えられることはないのでしょう。
 生残った家族への耐えようのない違和感と疎外感・・・あの子が死んでしまったというのに、何故に夫や兄弟達はこんな風に日常を生き続ける事ができるのか? 入院・闘病生活を通じて、死にいく子供と分ちがたく暮す事になる母親と云う存在は、残された者達に向って、時には理不尽な怒りに包まれるようなことが多いようです。むろん父親に子供を失った悲しみがない筈もなく、兄弟を失ったものの悲しみもまた、幼い故にとりわけ深いのかも知れません。ただ・・・他者の悲しみを理解するには、あまりに彼女達が沈んだ悲哀の海は深いようです。
 何故、何故と・・・際限もなくくり返したであろう自問の果てに、いつしか答えらしきものはみつかるのかも知れません。永遠に死者とかかずり合って生きていくことは、生身の人間にはやはり不可能なのでしょう。その事が「救い」とはなり得ないとしても、自分なりの回答を見つけずにはいられないそうした人間の弱さこそが、まさに生残った者達の「癒し」なのかも知れません。

 「子供の死」というものはそう簡単に納得できるものではない筈です。だからこそ人間はその事を深く考える必要があるのかも知れません。
 我が子の死が往々にして新興宗教の開祖などの発心のきっかけになったりするのも、まさに思い悩む人間の「もがき」がその源泉となっているからなのでしょう。


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