デーテーペーな1日

2000.07.16~31


日記関係の発言はこちらで。

7月16日(Sun)


 そうか、今夜は皆既月食だったんですね。天気予報などで何年ぶりの天体ショーなどといつもの調子で騒いでいたので天気が良ければベランダからでも見ようと思っていたんですが、そんな事はてっきり忘れて椅子寝してました。朝になって気づいてもすでに手遅れ。
 まぁ別に月が地球の影に隠れたからってなにがどう面白いのか、考えてみればよく判りません。月が地球に落っこちてくるのを目撃なんてことならそれはもう大変なスペクタクルなんでしょうが。

 京都では宵山だったのかな。うだるような夏の夜と雑踏をふと思い出しました。いつの間にか夏本番のようです。



7月17日(Mon)

 梅雨も開けてこれからが夏本番だというのにすでにバテてます。原因はやっぱり冷たいものの飲み過ぎでしょう。「リアルゴールド」も飲んでるんですが効き目はあるんだかないんだかよく判りません。後は「コーラ」やら「グランベリー飲むヨーグルト」だとか「農協牛乳」に「麦茶」など毎日がぶ飲み。
 冷たい飲み物というと氷がグラス一杯入ってないと気分が悪いというか、飲み終わった後も残った氷をがりがり食べるのが趣味なので我が家の製氷器はこの時期はフル回転です。喫茶店などでアイスコーヒーを頼んでなにが気分が悪いと言ってよく冷えてないアイスコーヒーに半分溶けかけた小さな氷が2・3ヶプカプカ浮いてるだけなんてものを持ってこられた日には思わずテーブルひっくり返したくなります。アイスコーヒーに限らず夏場の冷たい飲み物はやっぱりグラスの縁までぎっしりと氷が入ってキンキンに冷えていないと。ビールもあれで氷でも浮かべてあったら案外飲みやすいのかも知れません。

 という訳で朝から飲むヨーグルトなど飲みつつこの日記書いてます。



7月18日(Tue)

 いろいろとあった一日。といっても自らに降りかかったことではない。そのことに心の片隅で安堵する自分自身を見つけていささかウンザリする。なにを言ったところで所詮は人ごととうそぶくのもあんまりだが、しかし事実はやはりそうなのだという思いだけが残る。
 外出。つまらぬ同情を受け付けないほど今年の夏は暑い。

 まるっきり意味不明でした。



7月19日(Wed)

例えば
まもなく死ぬひとがいる
勿論わたしには成す術がない
その癖泣くこともできず
どう応えて良いのかも知らず
ただ上の空のようなそぶりで
まもなく死ぬひとのことを聞いている

イノチというものの
この果てしない浪費ぶりは
一体全体どうしたことなのか
この地上にあふれかえる数十億のイノチの
そのひとつひとつのあまりな無価値ぶりが
わたしの裡に深く徒労を刻む

かけがえのない筈のイノチが
いともたやすく消え失せることを
納得させる言葉をわたしは知らない

つまりは
すべては等しく空虚なのだと
改めてそう知ることがいかほどの結論なのかと
自嘲することにも
わたしはいささか倦んでいるようだ

 さらに意味不明か。
 確か今日はわたしの母親の誕生日の筈。生きているのか死んでいるのか、わたしはそれを知らされてはいない。いや、知ろうとしないというのが正しいのかもしれない。



7月20日(Thu)

 「海の日」などといういつまでたってもなじみのない休日のせいで子ども達は今日から夏休み。
 昨日が終業式だったので1学期の通知表を貰ってきたんですが正美は相変わらずいつまでたっても落ちつきがないせいで、日常の学習態度がよろしくないようです。それは家庭にあっても同じでいくら言っても片づかない正美の部屋などに本人のいい加減な性格が如実に現れているようです。麻美はと言えばこちらもかわりばえがしないのはいつも通り。先生のウケはすこぶる良いんですが、要はそれだけで可もなく不可もなしと言えば聞こえが良いけど消極的で個性に乏しいと言う事なんでしょう。きっと友達少ないのもそのせいかも。なにせ麻美との会話というのが実につまらないというか、本人だけが喜んでるけど相手にはなにも通じないという、面白味のない人間が得てして陥りやすいパターンなんですが、麻美の場合がまさにそれ。
 勉強に関しては3段階評価の最近の通知表ではなにがなんだかよく判らないんですが、まぁ間違っても出来が良いわけがないか。

 珍しく二人ともずっと家の中でテレビなどを見ていて遊びには出かけなかったようです。父親と一緒に久しぶりにプレステ2なども。



7月21日(Fri)

 なにもすることがない麻美と父親ふたり(正美はひとりでさっさと遊びにでかけたようです。)部屋でぼーっとしていたんですが、あまりにもヒマなのでビデオでも借りるかと、ヒマ人二人で近所のレンタルビデオショップまで。あれでもないこれでもないと迷うのは麻美の常でほおっておけばいつまででも決まらないんですが今日は珍しくすぐにお目当ての1本が見つかったようです。

 「シュリ」

 大方テレビのコマーシャルでも見たんでしょうがどう考えても子供向けとは思えないけどなぁ。テレビで話題になっているとこれが気になるのはまさにミーハーの証明。

 で、さっそくビデオ鑑賞。
 あぁこれって深作欣二だ。しかも仁義なき戦いシリーズの。男達の挽歌も入ってるのかな。アクションシーンの手持ちカメラのぶれとか血まみれの死体とか、90年代風に過剰にアレンジされていても、画面のどこかについ川谷拓三の姿を探してしまいます。まぁ仁義なき戦いシリーズのように混乱のなかで本当にカメラマンがどこかにぶち当たっているような映像とは異なり、妙に画像が鮮明でぶれた画像であっても何となくウソくさいのはデジタル世代とアナログ世代の違いのようなものかも知れません。
 30分位はそんなおかしな部分が気になってなんとか見ていたんですが途中ウトウトしてしまっていつの間にか終わってました。北の脅威に立ち向かう南の情報部員のお話し・・・なんでしょうが、よく判りません。もう一回、見ることはないかな。

 麻美も途中からウサギと遊んでました。結局結末はどうなったんでしょう。誰も知らないようです。



7月22日(Sat)

 なにも書く気にならないのをそれでも無理矢理書いてみても、やっぱりどこかが大きく欠けていることに気づいてさらに鬱な気分に陥るというのも因果なものです。要は「鬱」なんで、そんな時はWeb日記など書く気分じゃないのは当然と言えば当然なんでしょう。まぁ何ごともなかったかの如くいつもの調子のバカ日記を書くことぐらいはできるのかも知れませんが本人にあまりそれをする気がないのがこんなものを書かせる原因なのかも知れません。

 日中の暑さに恐れをなしたせいでどこにも出かける気力も失ってます。



7月23日(Sun)

落ちてきた母Part 1

 ぼくは小さい頃ひどく泣き虫だったせいで大人になってからはあたかもそれを恐れるかのように人前で泣くことをしなくなっていた。もっともそういう機会がなくなったから人前で泣くことをしなくなっただけで生来の泣き虫という奴はそう簡単には直らないものなのだろう。なにかをきっかけにして人目もはばからず泣き出してしまうような事もあるのかもしれない。

 玄関のドアを後ろ手に閉めると、そのままぼくはふぬけのように立っていた。6畳に小さな台所がついただけのアパートではどこにも隠れることもできず、玄関先でただ呆然としたまま頷くのだが、そのくせ目の前の小さな老女の早口な会話はまるで理解してはいなかった。南の島の方言がきつくてぼくには最初なにも聞き取れないのだが、なにかを尋ねられているのだと思うから「はい。はい。」と、判らぬままにうなずいてみせる。
 間に立った彼女が腕組みしたまま面白そうにそんな僕たち二人の様子をしばらく眺めていたが「そんな処で立ってないで座ったら。」と助け船を出したのをきっかけに、ぼくは身体を横にして老女の脇を通ると6畳間におかれたソファーに座った。落ちついて聞いてみれば老女の話す言葉はまぎれもない日本語であり僕にも理解できた。名前を聞かれたので答える。「はい。」と返事するのがとっても良いと、まるで幼い子ども相手のように何度も名前を呼ばれた。以後はぼくを呼ぶときはいつも呼び捨てだった。

 それが彼女の母親と初めて逢った日のことだった。間もなくぼくにとっての義理の母親となる人だった。

 なんだか長くなりそうなので久しぶりに連載日記。



7月24日(Mon)

落ちてきた母Part 2

 いきなり目の前に現れた男、しかも娘の同棲相手。傍目にはいかにも胡散臭い人間に映った筈なのだが、そのあたりを躊躇することは一切なくて最初から最後まで彼女のぼくに対する態度は変わることがなかった。

 ぼくには母親という印象があまりなくて、年齢のせいもあってどちらかと言えば祖母のような気がしていたから彼女の言うことにはなんでも素直にはいはいと言えたのかもしれない。小さい頃からのおばあちゃん子であるぼくは年寄りの扱いがすこぶるうまかった・・・というよりも有無を言わせず人のふところ奥深くにまで入り込んでくるこの人の真っ直ぐな性格に戸惑っていた。今までぼくはそんな人に出逢ったことがなかった。本を読んでいると中身ではなくその厚みにひどく感心して、それを全部読むのかと真顔で尋ねるような人だった。
 ぼくの言うことならなんでも素直に信じた。何処へでも一緒に行きたがり、出かければ心底それを楽しんでいることがこちらにも伝わってきた。南の島へ一緒に帰ったときには親戚中にぼくを連れ廻ってあれこれ自慢するものだから辟易とするのだが、それでもぼくは素直に彼女の後を付いていっては口に合わぬご馳走の数々に目を白黒させては、そんな自分自身を半ば信じられない思いでいた。

 「母」という存在を嫌悪し続けていたぼくにとって、まるで空から突然に落ちてきたような新たな「母」だったのだが、彼女は今までのぼくの裡なる母のイメージをことごとく打ち砕き、もう一度新たに再生させる為にぼくの前に現れたような気がしていた。

 日々の記録というよりもこれは過去の記録とでも呼ぶべきもののような気がします。



7月25日(Tue)

落ちてきた母Part 3

 ぼくには母親という印象があまりなくて、年齢のせいもあってどちらかと言えば祖母のような気がしていたから彼女の言うことにはなんでも素直にはいはいと言えたのかもしれない。小さい頃からのおばあちゃん子であるぼくは年寄りの扱いがすこぶるうまかった・・・というよりも有無を言わせず人のふところ奥深くにまで入り込んでくるこの人の真っ直ぐな性格に戸惑っていた。今までぼくはそんな人に出逢ったことがなかった。本を読んでいると中身ではなくその厚みにひどく感心して、それを全部読むのかと真顔で尋ねるような人だった。
 ぼくの言うことならなんでも素直に信じた。何処へでも一緒に行きたがり、出かければ心底それを楽しんでいることがこちらにも伝わってきた。南の島へ一緒に帰ったときには親戚中にぼくを連れ廻ってあれこれ自慢するものだから辟易とするのだが、それでもぼくは素直に彼女の後を付いていっては口に合わぬご馳走の数々に目を白黒させては、そんな自分自身を半ば信じられない思いでいた。

 「母」という存在を嫌悪し続けていたぼくにとって、まるで空から突然に落ちてきたような新たな「母」だったのだが、彼女は今までのぼくの裡なる母のイメージをことごとく打ち砕き、もう一度新たに再生させる為にぼくの前に現れたような気がしていた。

 なにが書きたいのかだんだん自分でも判らなくなってきてます。本当はもう少し違ったもののつもりだったのですが書いているうちにいつの間にかこんなものに。



7月26日(Wed)

落ちてきた母Part 4

 娘の結婚式にはもちろん新婦の母親として普段はしない化粧をし立派な黒留め袖で参列したのだが、どうしても娘の結婚のお祝いの為に踊るのだと、彼女の生まれ育った南の島の躍りを参列者に披露した。宴会場の片隅に設けられた小さなステージで踊るその様子はお祝いのためと言うより、むしろこうした場を彼女自身が一番楽しんでいるように見えた。
 まぁそれは良いのだが、踊り終わると彼女はさっさと着替えてしまい結婚式の最後には新婦の母親は汗でまだらになったお化粧と服装といえばまったくの普段着で花束贈呈の為のスポットライトを浴びるという仕儀におよび、そんな処もぼくには心底愛すべき人だった。

 ぼく達が駆けつけたときにはすでに彼女の意識はなかった。重い呼吸音がベッドの傍らの機械を通じてその部屋を満たしていた。時折目の前のなにかを追い払うように手を微かに動かすのだが呼びかけても返事はなかった。
 病院に搬送されたばかりで肉親はまだだれも到着していなかったため、当直と思われる若い医師が病状をぼくに説明した。くも膜下出血の重い発作だという。見込みはないので医学的な治療はなにも施してはいないという説明だった。今は人工呼吸器に繋いでいるが肉親の方が揃ったら外しましょうかと、随分と手回しがよい事を言う。「安楽死」などと事改めて言い出さなくとも現場ではこういう「操作」が日常としてすでに行われていることを納得する。もちろん肉親が最大限の治療をと望めば心臓が停止するまで人工呼吸器を外すことはないのだろう。
 遠方から駆けつける肉親もいるのでもう少しお願いしますとぼくが答えると、判りましたと返事はしたが、その若い医師は明らかに面倒くさそうだった。 

 つまりは「死」というものを書きたかったのかと自分で納得する。



7月27日(Thu)

落ちてきた母Part 4

 2日ほど病室での徹夜が続いたのだと思う。ただしそのあたりの記憶はあまりはっきりとはしない。食事もした筈だし待合い室ののソファーで少しばかり横になったこともあったような気もするが記憶は何も残ってはいない。ベッドの上で眠っているように見える彼女の枕元でただぼんやりと窓の外の景色を眺めて過ごしていたような覚えが微かにある。桜はすでに散っていて病院の中庭に植えられた桜の並木は葉桜だったことを思いだした。花壇には色とりどりの花が咲いていた。ずっと遠くには遥かに霞んだ山並みが続き、窓を開ければ5月の風が病室を通り抜け廊下の向こうにまで緑の気配を運んでいた。

 「死ぬには爽やかすぎる季節ですね、おかあさん。」

 無性にぼくは彼女に声をかけたくなったが、心の中でだけそうつぶやいた。

 あんなに大勢の人間が詰めかけていたというのに、彼女の死を看取った人間は誰もいなかった。あるものは待合い室で煙草を吸っていた。別のひとりは一旦自宅に戻って2日ぶりに風呂に入っていた。ぼくはと言えば病院の売店であれこれと文庫本を物色していた。

 気づいた看護婦が慌てて医師を呼んだがやってきた若い医師の処置はすべて「儀式」のようなものだった。医師が一礼してベッドを離れると周りを取り囲んでいた女達が一斉に泣き崩れる。そんな様子をぼくは少し羨ましいもののように思ったことを覚えている。
 薄暗い廊下にでると、ぼくは自分が泣いていることを少し驚きながら意識した。子どもの頃あんなに泣き虫だった筈なのに、ぼくは久しく涙を流すことすら忘れていたのだ。

 やってきた時と同じように、ぼくにとっての「落ちてきた母」はふいにいなくなってしまった。寂しいと思うことはもうないが、もう一度逢いたいと思うことは時折あった。

 書きたかった筈の「死」を、ぼくはずっと書きあぐんでいる。それは彼女の死を悼むのではなく、ただその頃の自分自身の記憶を懐かしんでいるだけではないのかという思いがぼくの脳裏を離れないからだ。何れにしても死者にとって生き残ったものの言葉などどこまでも理不尽なものに違いないのだ。



7月28日(Fri)

 日記とも言えない訳のワカラン代物を書いていたせいですっかり日付の意味を見失ってます。3日ぶりにいざ書こうとすると、金曜日になにがあったかなんて今更聞かれたところで答えられる筈もなく、まぁ何時も通りだったからこそなにも思い浮かぶことがないんだとするならこんなものを書く意味はさらにないんでしょう。と言いつつ書いている何時もの自己矛盾。

 ちび字もなし。



7月29日(Sat)

 この日はあまりにアホ臭かったのでなにがあったのかしっかり覚えてます。
 数日前の折込チラシに立川のデパートで夏休みの子ども向けのイベントとして「仮面ライダークウガ」のショーが予定されているのを見つけて、子ども達に「行ってみるか?」と訊いてみるとと二つ返事で行きたいという事だったので、きっと混み合うだろうからと早めに出かけることに。
 開店前についてしまったのにすでにデパートの前には小さなガキを連れた親子連れで超満員。早くも嫌な予感が・・・周りは2・3歳の小さな子どもばかりで正美や麻美の年頃の子どもなんてどこにも見当たらないんですが、本人達はあまり気にしていないようです。精神年齢は2・3歳止まりなのかも知れません。そう言えばうちのガキ達が小さい頃こうしたイベントにはよく出かけました。ウルトラマンショーやらセーラームーンショーを追っかけてデパートの屋上からホテルのイベント会場までこまめに足を運んだのはほんとのとろこは父親がそんなのが好きだったからかも知れません。
 肝心の「仮面ライダークウガショー」は未確認生命体(本編見てない人には判りません)は出てこなくてクウガがひとり寂しくポーズをするだけで、あとはクイズというあまりにもあんまりな内容で、これにはさすが物好きな子ども達もぶつくさ文句言ってました。それでも小さい子どもを連れた父親や母親は必死で人混みの上からなんとか我が子にそのちんけなショーを見せようと肩車したりだっこしたりで、傍目にも大変そうでした。我が家も子ども達が小さい頃はあんな風だったと思い出して一層ゲンナリ・・・

 それでも懲りもせず、デパートの帰りにはモノレールに乗って炎熱の多摩動物公園へ。<さらに物好き。
 くそ暑い夏の動物園に人影もまばらで台湾からと思われる観光客ばかりが妙に目立ってました。ライオンもぐったりで木陰で昼寝しているし、相変わらずコアラはうす汚れた雑巾みたいにじっと動かないし、とにかく夏に動物園なんて行くもんじゃありません。



7月30日(Sun)

 身勝手な作家、と言うより対外的に見ればただのろくでもない男にいいように振り回される人生という事で、同じく無頼派の坂口安吾の妻だった三千代の「クラクラ日記」を彷彿とさせるのだが、沢木耕太郎の「檀」はノンフィクションには珍しい一人称で綴った一編で、むしろ本人にとっては小説に近いものなのかもしれない。戦後無頼派の一員としての檀一雄とその未亡人の愛情物語とでも呼べばいいのかも。
 それにしても死後にその妻が夫として男としての作家に付いて語るというのは死者にとってはとても気恥ずかしいもののような気がする。というか、いろいろと着飾った言葉で自己を語るのが作家という人間の習い性(要は大ウソつきということなんですが。)だとするなら、舞台裏からの報告という奴はなにかと不都合があったりするんでしょうが本人はすでに死んでいるんだからいまさら文句を言う筋合いではないのかも知れません。
 妻と愛人の間をふらふらと行き来する作家檀一雄という男はつまりはとても幸せな人だったという事につきるんでしょう。手ひどく裏切ったうえにさらにはその愛人との情事の一部始終を小説というかたちで発表してしまうことで何重にも妻と愛人を傷つけながら、それでも尚且つ最後には妻の元へ帰っていく身勝手な男というのはある種羨ましい存在ではあるけれど、それを許す女達がいなければ物語はなにも始まることはなかったのだろう。つまりは、「火宅の人」を書いたのは確かに檀一雄ではあるが、それを書かせたのは妻ヨソ子と愛人の入江杏子だったということになる。

 などと文芸時評めいたことが書きたいわけではなくて、ただ何となく不明に身につまされる事が多いのがちょっといやんな感じ。
 いつもの沢木耕太郎にしてはいささか弱いんですが、それも単に檀一雄のファン故にそうなってしまったのかも知れません。

 「そんな、純文学みたいなことを言うな。」というのがお気に入りのフレーズです。浮気がばれて家を出るという妻に対する言葉なんですが、やっぱりとことんシアワセな人だったんでしょう。



7月31日(Mon)

 1週間も間が空いてしまえばもはやそんな過去の記憶なんて僕には残っていません。というか毎日の生活にほとんど変化がないのでそんな日が何日も重なると後になればなるほど記憶は曖昧模糊としてしまって本人にも定かではなくなってしまうからなんです。
 そのくせ過去の記憶となるとやたらと鮮明でどうかするとその日交わした会話の一節までふいに思い出したりする事があるのは、つまりはそういうものが老人の繰り言という奴の正体なのかも知れません。まぁそれも随分と昔の記憶についての話しであって、1年前とか半年前になるとまるで覚えていないというのもやはり過去に生きるしかない老人らしい振る舞いとでも呼べそうです、

 月曜日なにやったかなぁ・・・やっぱり覚えてません。


Go Back My HomePageMail To Yaku