曲目解説


ミサ曲 ロ短調 とは

 BWV(バッハ作品目録)の最新版のものをみると約1120番くらいまであり(偽作も含まれているが)、バッハがいかに多作家であったかを物語っている。そして、ごく一部の曲を除き、彼の作品は何らかの場所で、目的があって演奏された、いわゆる実用音楽であった。例えば「教会カンタータ」「受難曲」「オラトリオ」「モテット」などは、当時のルーテル教会での礼拝をはじめとする諸儀式のためのもので、オルガン作品の大部分も同様であり、あまり知られていないが、家庭内での祈祷(祈り)のための作品もある。また世俗作品と言われる作品も領主や有力者の祝祭行事、葬儀のためなど、用途がはっきりしている。チェンバロ作品、オーケストラ作品(協奏曲や管弦楽組曲等)も実用音楽であったことがはっきりしている。
 さて、それでは「ミサ曲ロ短調」とはどういった場面での作品なのか。1856年に刊行された「旧バッハ全集」には「Messe in h-moll」のタイトルがはっきりと記されている。しかし約1世紀後の1955年に刊行された「新バッハ全集」には「Spater genannt」「後に名付けられた」と言う意味であり、編集者のフリードリッヒ・スメントはその校訂報告の中で、「ミサ曲ロ短調」という作品は存在せず、後世そう呼ばれるようになっただけ、と言う様な事を記している。この報告を受け、バッハ研究者の間では賛否両論が入り交じり48年経過した今日でも議論は続いており、答えはまだ出ていない。
 作品の成立過程を一つとっても意見がいくつかに分かれている。一つにはバッハが晩年ドレスデンへの就職を考えて、既在した作品と新作をまとめカトリック用のミサ通常文による曲を創り上げたと言う説、二つ目はバッハが晩年になり宗教心が高揚して、宗派、つまりルター派、カルヴァン派、カトリックなどと分かれていた当時の教会の垣根を越え、信仰告白した(今で言う教会一致運動のさきがけ)、その象徴が「ミサ曲ロ短調」という説、大まかに分けて大体この二つの意見が多数を占めている。
 しかし、この二つの意見はいまひとつ説得力に欠けると思われる。一つ目に関して述べると、1748年にOsannaとAgnus Deiを書き足してカトリックミサ通常文を完成させた事になるが、この頃はバッハ自身、体調を崩しており、ドレスデンへの転職(宮廷楽長を指す)を現実的に考えていたとは理解しにくい。また、一つ目の意見の理由に、「ミサ曲ロ短調」にドレスデンで流行していたナポリ楽派の影響を指摘する研究者もいるが、それはドレスデンに限らず当時の中部ヨーロッパ各地でそのスタイルは模倣されていたので、決定的理由にはならない。そして何より、当時のドレスデンでのカトリックミサ通常文と「ミサ曲ロ短調」は、式次第に違いがあり、バッハのそれは実用するには無理があった。
 二つ目に関して述べると、まず当時の神学思想に矛盾する。バッハ存命の頃の中部ドイツ、今で言うチューリンゲン、ザクセン地方はルター正統主義が教会思想の中心であった。簡単にいうと、ルター派だけが神学的に正しく、カルヴァン派(改革派)、カトリックなど他宗派は間違っている、という排他的な考えに支配されていた。特にライプツィヒはその牙城であったのだ。今でこそ時代遅れのナンセンスかつキリスト教の本質にそれこそ反する様な考えであるが、他宗派も当時は似たり寄ったりであった。バッハがKyrieとGloriaを献呈したドレスデンのフリードリヒ・アウグスト二世が、贈られたにも関わらずこの曲を聴いていなかったのは、彼がカトリックだったから、と言う事は周知の事実である。それ程同じ神を拝むキリスト教でありながら、宗派によって区別、差別されていたのである。ケーテン期のバッハの信仰に関する苦労をご存知の方々も多いだろう。
 「ミサ曲ロ短調」とは・・・バッハ研究が進んだ今日でもその結論はまだ出ていない。しかし物議をかもし出したフリードリッヒ・スメントのいう「個別の作品が集められ、後にそう名付けられた」との考えは、私には肯定出来ない。成立時期は確かにそれぞれに異なるが、GloriaのGratias agimus tibiとAgnus Deiの最終曲であり、礼拝式文の中でも最も重要な部分であるDona nobis pacemは単にメロディーが共通と言う以外にも、祈りと願いをささげる、と言う意味で共通する部分がある。そして何より、抽象的な表現で恐縮であるが、ミサ通常文として全体を通しこの曲を聴くと、ひとつ筋が通った、フィロソフィーを感じるのである。
 今後研究が進み、全容が明らかになる日が来るかもしれないが、「ミサ曲ロ短調」がバッハの数ある作品の中でも、後世に伝え続けられる曲の一つである事は、誰も否定出来ないであろう。

バッハ アルヒーフ ライプツィヒ 広報室 高野昭夫


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