曲目解説


W.A.モーツァルト:ヴェスペレ ハ長調 KV339

 ヴェスペレとは、カトリックの聖務日課において日没時に執り行われる祈り、挽課の意であり、そこでは詩篇その他が厳かに唱えられ、主なる神への祈祷がおこなわれる。この中に含まれる「マニフィカト」の典文には古くから多声書法が許されていたため、宗教音楽の歴史においては、おそらくミサに次いで重要な位置を占めている。
 モーツァルトにはこのKV339「証聖者の荘厳な晩課」の他にもう一つ同じハ長調のK321「主日のためのヴェスペレ」という作品がある。両曲とも使われているテキストも、音楽的構成もまったく変わるところはなく、旧約聖書より5つの詩篇(第110,111,112,113,117篇)と新約聖書ルカ伝より第1章第46行から第55行までを用いており、各々の結尾には「願わくは聖父と聖子と聖霊として栄えあらんことを…」の讃詠が付加される。この讃詠はコーダの役割をはたし、とりわけ「マニフィカト」ではフィナーレの力強いクライマックスの形成にあずかっている。
 曲は主としてホモフォニックな書法でかかれているが、唯一の例外は第4曲の“Laudate pueri”である。ここでは有名な≪レクイエム≫の「キリエ」を思わせる荘重な主題により力強いフーガが展開される。この作品のもう一つの特徴は、著しい違いをなす調性的多様性である。曲はハ長調にはじまり、変ホ長調、ト長調、ニ短調、ヘ長調を経て再びハ長調にもどるという構造連関を示し、それによっていっそうドラマチックな性格を与えられている。またときおり織り込まれる四重唱やソプラノのコロラチューラもこの曲に甘さと華やかさとを添え、全体をより豊かなものとしている。
 このヴェスペレはザルツブルクで作曲されたモーツァルトの最後の教会作品にあたり、響きの造形的精巧さの中に、晩課のもつ壮大で盛大な雰囲気を表現している。

川上裕美子


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