曲目解説


J.S.バッハ:ミサ曲 ロ短調 BWV232


ミサ、創造と受難
−−バッハのミサのための音楽、ロ短調への断章−−

ミサのために、その生涯の終の頃に改めて筆をとって整った音楽をまとめることは、ルター派カントルにとっていささか異様な事柄に属するといわねばなるまい。原則として、また少なくともバッハが長く活動の場としたライプツィヒの教会において、いわゆるミサ・トータは教会の典礼には用いられていなかったからである。無論のこと、外的理由からしてバッハが、何等かの注文に応じてその作品をまとめたことは可能性として考え得る。だがそれにもかかわらず、彼のミサについて何がしかのことを考えようとする場合に、その本質において問われるのはこの作品において響き続けて止むことのない深く透徹した存在の懐疑以外の何ものでもないであろう。作品をまとめるに当たっての、一切の外的理由を超えて即ちバッハその人の内面において問われ続けたに違いないであろう、人の在ることをめぐる内的省察こそがこのミサのための音楽を支えたのである。
日常の職務の要求からまとめられた多数のカンタータをいまは惜いていうならば、バッハの場合にもミサのための音楽は明らかにその対をなす受難のための音楽とあわせ考えられねばならない。何故ならば、中世以来の典礼と音楽の関わりのなかで、ミサ聖祭のための音楽はほぼ一貫して、聖餐とは何かをめぐる問に対する応答としてその響きを形成して来たからであり、その限りではバッハのミサのための音楽も当然のことながら、ローマ・カトリック教会における典礼にその根をおろしていることになるのであって、一般に云々されるように、単にルター派教会の音楽の流れのなかで捉え得るものではない。しかもこのことは典礼の規定の面にのみ結びつけられ得るものではなく、例えば13世紀の聖トマスに代表される聖餐に関する問への応答が、例えば16世紀のパレストリーナのミサのための音楽を支え、そのパレストリーナの作曲様式がバッハのミサのための音楽の底流をなして、作曲技法の面においてもバッハの音楽に歴史の陰影を与えることになったのである。
ミサ典礼はいうまでもなくキリストの最後の晩餐にその根をおろしている。だが同時に、バッハにとっても当然のことながら、パンとぶどう酒として祭壇に再臨される主の肉と血は創造のロゴス(言葉)として降誕され、やがて十字架を受苦されたイエス・キリストそのもの以外の何ものでもない。このことが、つまりはミサのための音楽の作曲の技法を規定する−例えば、バッハの作品における et incarnatus est(受肉されて)及び crucifixus(十字架を受苦されて)の特異な響きと、聖餐に直接関わる benedictus(主の御名における来臨)を響かせて、かろやかに浮かび漂って流れる透明な一篇の歌こそ、件の聖トマスからパレストリーナへと受け継がれてその後の典礼音楽を規定したミサの歴史が、ルター派カントルの手によって18世紀に再び響かせられたものに他ならない。但し、このことを改めてルター派教会の枠内で捉えるならば、それはまたルターその人によって教会の年間の典礼の中に、とりわけて礼拝における聖書朗読と結びつけて固定されたものであったことは注意されてよいであろう。クリスマスの降誕を待望するアドヴェント(待降節)が直接キリストの十字架、即ち受難に結びつけられたルター派教会の基本的構造の故に、バッハにおいてもまた、ミサのための音楽はその遺された二つの受難のための音楽と体系をなして切り離され得ないのである。
降誕と十字架と聖餐と、復活と再臨を間にしてこの構造はまた地方で、聖餐に与るものに新たな生命をもたらして主の創造の業を伝える。バッハその人が聖餐をうけたのは、当時の慣例に従って、年に二度三度のわずかな回数に過ぎなかった。だが、数の多寡に関わりなく、聖餐に与ることは直に、それによって与えられる生命がその基底をなす、自己の何であるかへの問を生む。かつてルターは説いて、神の創造になる人間は、人間が人間であることを離れてただ神の言・光を受けることによって在ることを証しされることを衝いたのであった。もしもカントル・バッハがルターの教説に共鳴したのであれば、バッハにおいて創造は二重の意味において、一個の人間として、また自ら関わる音楽の創造を通して、自己の無であることの自覚へと導く事柄であったに違いないであろう−神の創造の自覚に立つことは、その創造の場に立つことによってのみ自己は在り得ることを、逆にいうならば、そこから離れて自己の在ることの無意味であること以外の何ものをも告げはしないからである。のみならずまさにその故にこそ、自己の在り得ることを願って、神の創造の業が私へもふり向けられることを祈ってミサ冒頭の、Kyrie は深く響いてただ神の前に頭を垂れて憐れみを乞うバッハの、そうして人間の、存在の根底を浮かび上がらせて鮮やかに過ぎていくのである。

ミサ・トータはミサ典礼文のうち、日曜日や祝日に原則として常に用いられる典文(通常文)のうちの Kyrie eleison(憐れみを求める部分)とGloria(神の栄光の讃美)、Credo(唯一の神、三位一体への、また神の創造への信仰を告白する部分)、Sanctus と Benedictus(祭壇への主の到来、讃美)及び Agnus Dei の全体に付曲したものを指す。ルター派教会では普通は、最初の Kyrie と Gloria が礼拝で用いられていた。

東京音楽大学講師 丸山桂介


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