Program Note


J.S.バッハ 《ミサ曲 ロ短調》 BWV232

 J.S.バッハ(1685~1750)が活躍した時代のドイツは、思想的にも宗教的にも、かなり混乱した時代であった。思想的には、フランスから合理主義が入ってきて、当時のドイツの思想にも影響を与え、ドイツ人のフランスびいきが始まった。その影響は、思想のみならず、人々の生活や文学、絵画にも波及していった。あるドイツ史学者は、合理主義の影響を受けて、真のドイツ文学は終わった、とさえ述べている。
 一方、敬虔主義であるが、もともとルターはカトリックのミサを否定していないし、宗教行事は伝統的なものを守ろうとした。それはドイツのみならずルター派を信じる国々に綿々と受け継がれていた。しかし1600年代後半頃から、華美な教会音楽や教会様式、そして祭壇すら真の信仰には必要ない、という考えがルター派のなかで広がったのだ。バッハの教会音楽をみると、彼は敬虔主義に抵抗した一人だったと言える。それは、1723年にライプツィヒに着任し、教会音楽を300曲以上作ったことからもわかる。ちなみに、この300曲というのは声楽作品のみのことであり、その他にオルガン作品も多数作曲したことが知られている。ゆえに、バッハが住んでいたライプツィヒは、ルター正統派の最後の牙城といっても良いだろう。それを裏付けるように、バッハがライプツィヒで活躍していた頃、すぐそばのハレでは、すでに敬虔主義が広がっていた。
 また、バッハが晩年になって、彼のポリフォニーの音楽が時代遅れであるとハンブルクの批評家たちから批判されたことがある。彼の作風は時代遅れになったのだ。しかしそういうふうに断言するのはどうであろう? たとえばこの《ミサ曲 ロ短調》という作品にも、フランス風の新しい書法を取り入れている曲が何曲かある。バッハが対位法をさまざまな作品で用いたからといって、彼が時代遅れで古臭いと決めつけるのは間違いである。しかし、バッハが昔からの伝統を受け継ごうとしたのは、これまた確かだ。

 さて、《ミサ曲 ロ短調》だが、この大作の成り立ちは複雑だ。というのも、これはバッハが一気に作曲した作品ではなく、もともとはいくつかの別々の機会のために作曲した曲を、晩年に完全なミサ曲としてまとめたものだからである。
 まず第1部の〈キリエ〉と〈グローリア〉は1733年の夏、新たに即位したザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストゥス2世のために作曲されたものである。その証拠に、1733年7月27日付の選帝侯への献呈の手紙が残されている。ちなみに、〈キリエ〉と〈グローリア〉のみのいわゆる「小ミサ」はルター派の教会でも演奏されており、バッハも4曲作曲している。第2部の〈クレド(ニカイア信条)〉の起源については、ほとんど資料が伝えられていない。おそらく10楽章ほどは初期稿があったと推測されるのだが。第3部の〈サンクトゥス〉は、1724年のクリスマスにライプツィヒの教会で演奏するために書かれた曲だ。そして1748~1749年頃、「完全なミサ曲」を書こうと思い立ったバッハは、それらの作品をまとめ、第4部をはじめ欠けていた部分を新たに作曲し、既存の作品に修正を加えた。亡くなるわずか1~2年前の作業であり、自筆譜の筆跡にはバッハの健康状態が良好ではなかった様子が反映されている。

 この《ミサ曲 ロ短調》という作品は、1900年代半ば以降、物議を醸した作品だ。なぜならバッハの音楽というのは、実用音楽であり、その用途が決まっていた。しかしこの作品は、バッハが生きている間に演奏されたとは考えられない。先にも述べたように、バッハはルター正統派の人間だった。ゆえに、カトリックのミサそのものをけっして良くは思っていなかったからだ。また、この曲の構成から、カトリックのミサで用いられることもなかった。
 そこでよく言われるのが、バッハがドレスデンへの就職のために書いたものだ、という説である。私はこれに対しずっと反論していたが、今では彼が育った精神的な土台を考えると、体調不良がゆえに、彼が自分の将来を諦めたとは考えにくい。もしかすると、本当にドレスデンもしくはそれ以外の地のための就職活動のための作品だったのかもしれない。しかし、彼の現実的な生涯を顧みると、これはバッハの声楽曲の「遺言」であったとも考えられるだろう。かたや器楽音楽の「遺言」である《フーガの芸術》は未完に終わっている。繰り返すが、今もバッハ研究者は、ドレスデンへの就職のため、ウィーンからの依頼を受けて、あるいは息子カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの就職を援助するため、などさまざまに推測している。永年親しんできたこの曲を、私はいま、永遠の謎でも良いのではないか、という開き直った気持ちで対峙している。

バッハ資料財団ライプツィヒ国際広報官・一般社団法人日本バッハ協会代表理事 髙野 昭夫


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