曲目解説


ヘンデル:メサイア


オラトリオ作曲家ヘンデル

いつの時代も音楽は社会生活との関わりの上に営まれ、ひとつの文化を形成している。それが商業主義に則った大衆のものであれ、時代を超えた普遍的な芸術であれ、そこには音楽を作り上げる人と、それを再現する人と音楽美を感受する人との関係によって成り立っている。ヨーロッパで発展したクラシック音楽は、古くから宮廷、教会、劇場でさまざまな様式を生み多くの分野の音楽を形作っていった。
ヘンデルの「メサイア」は、オラトリオの歴史の上でもバロック時代の様式の上でも、一つの時代を象徴する作品として音楽史上に確たる地位を示している。ヘンデルは同時代に生まれたJ.S.バッハとは、人柄や作品の様式も異なっている。そのことは何よりも、終生ドイツを離れず、教会音楽家として生きたバッハに対して、ヘンデルは、ヨーロッパの国々を旅し大衆を相手にした劇場音楽を主に作品を書いたことからも理解されよう。バッハの音楽と違い、ヘンデルの音楽には、イタリア的な明るさや様式が備わっているがこのことは国際人としてのヘンデルの生き方を反映しているのと同時に次の時代(古典派)の社会を予見しているのかもしれない。
さて、現代では、音楽の消費国として、わが国は世界に名だたる音楽王国だが、バロック時代のイギリスは、アメリカやインドに植民地として進出し市民革命をいち早く為し遂げた先進国であった。こうした、すぐれた経済力を持つ大英帝国に、成功を夢見て多くの音楽家が来るがヘンデルもまた例外ではない。しかし、当時のイギリスの音楽界は、ヘンリー・パーセルがバロック様式の音楽を確立していたが、芸術界の頂点としては、シェイクスピア劇場が盛んで多くの劇場ですぐれた台詞のもと演劇が音楽を凌ぐほどの隆盛を極めていた。そんな中、国際都市ロンドンに、イタリアで勉強してきたヘンデルがオペラ作曲家としてイギリスで地位を固めていく。しかしながら、ヘンデルは1730年代頃からオペラの作曲家からオラトリオの作曲家へと転身する。当時のオペラはイタリア語で上演し内容は歴史ものが多く、教養ある貴族階級を中心に支持されていたが、一般の市民階級は母国語で演奏されるオラトリオを支持していた。しかし、市民革命を為し遂げ産業革命を控えていたイギリスでは、貴族の没落と共に音楽も市民に理解しうるオラトリオが好まれた。ヘンデルは、50曲におよぶオペラを作曲したが、今日わが国でも上演されるのは、わずか1、2曲である。晩年のヘンデルは、時代の移り変わりと共にオラトリオとしての作曲家の地位を築き、オペラの発達は、本場イタリアへと委ねられていくのである。

オラトリオとは、聖書に出てくる話をもとにして、独唱・重唱・合唱・レチタティーヴォを交互させて進行する音楽劇である。ヘンデルのオラトリオは教会で礼拝のためのものではなく、劇場で演奏されることを目的とした。また、劇場を中心に音楽が栄え、オペラに興じていた貴族階級にとっても劇的なヘンデルのオラトリオは、当時のイギリス国民に受け入れられうのである。
さて、ヘンデルの中でのオラトリオの代表作は「メサイア」であるが、この作品はオラトリオの中でも最も変則的な作品である。なぜなら宗教的オラトリオは、聖書の言葉により作られたアリア・レチタティーヴォ用の歌詞を用いて聖書の物語を描くのが普通であるが、「メサイア」は、聖書の言葉をそのまま用いており、物語風の筋は用いていない。わが国では、クリスマス・シーズンによく演奏されるが、これはこの曲がキリストの降誕・受難・復活を三部構成で音楽化したものであり、キリストの生涯を部分ごとに表し、そのことが普遍的なテーマとともに今日でも演奏され続けてきている。ヘンデルはこの曲をわずか24日間で作曲し、1741年にアイルランドのダブリンにて初演し圧倒的な成功をおさめた。しかし、完成したスコア通りに演奏されたことは一度もなく、決定稿といわれたものはない。初演から2年後にロンドンで国王ジョージ二世の前で演奏されたハレルヤコーラスでの逸話はあまりにも有名である。全曲は、合唱曲が多く、間にオーケストラだけの「田園曲」やアリアでは、作曲者が涙して書いたと言われる23番のアルトのアリアがあるが、何よりもハレルヤの合唱や終曲のアーメンコーラスが聴くものを圧倒させずにはおかない。そうしたことがこの曲を記念碑的なものにし、歌い継がれているのであろう。

尾澤栄一


演奏会の記録に戻る