曲目解説


教会音楽史からみたバッハとモーツァルト

 教会音楽は初期キリスト教会の頃から存在した。しかし、それは決して華やかなものではなく信者の人々が集まり単旋律でイエス・キリストを讃美、そして感謝の気持ちを歌いあげる素朴な作品であった。
 中世に入りローマ・カトリック教会では「グレゴリオ聖歌」が創られた頃、現在に至る「ラテン語ミサ式文」が確立し、ほぼ同時期に東方教会(ギリシア正教、ロシア正教)の「ミサ式文」も確立しこれもまた現在に至っている。
 その後1500年代、宗教改革がマルティン・ルターによってなされ、ローマ・カトリックから枝分かれしたルター派教会がドイツを中心にヨーロッパ内に広まっていった。ルターは自らの著書でも書いているようにローマ・カトリックからの伝統であるミサ形式を否定はしなかった。唯、それまでのラテン語によるミサは一般民衆に判り難いため、自国語でのミサ「礼拝式文」を創りあげた。(ローマ・カトリックも第2バチカン公会議以降、自国語でのミサを認めている。)
 ルター派教会の勢力が広まっていく状況を危惧したローマ・カトリック教会は対抗策として海外への伝道、ミサ(主課)やヴェスパ(晩課)に於ける音楽の充実に力を入れ始めた。その結果、1700年初め頃から約半世紀程の間ナポリ楽派の影響を受けた華々しく且つ教会に集った信者の人々が疲れ果ててしまうほどの長時間のミサが行われた。一説によると無祭時期(クリスマス、復活祭などの祝祭日以外)の日曜日のミサでさえ約4時間掛かったという。ルター派もまた、ローマ・カトリックに対抗し礼拝音楽の充実に力を注ぎ、バッハが活躍した頃、ライプツィヒのトーマス教会では毎週約3時間にわたる礼拝が行われていた。当時の信者の方々にはお気の毒ではあったが、この頃が教会音楽が最も栄えた時期であったと言えよう。例えばヴィヴァルディの「グロリア」、バッハの「ミサ曲ロ短調」を思い起こしてほしい。そしてこの時期に作曲活動ができたバッハはある面で幸福だったと思われる。なぜなら1700年後半になるとフランスから合理主義の思想がヨーロッパ全土に広まりミサ、礼拝も徐々に簡素化され始める。ゆえにモーツァルトが活躍したとてつもなく長いミサ、礼拝は執り行われなくなってきた。本日演奏される「戴冠ミサ」も約30分の作品である。
 ここでお断りしておかなければならないことが一つある。式自体の時間は短くなっているが、教会音楽史の観点から鑑みてミサや礼拝が衰退していったわけではない。むしろ教会音楽は新しい境地に入りこの時期以降も発展を続けていくのである。

 さて本日演奏される作品だが「戴冠ミサ」の名で知られている「ミサ・ソレムニス」(大ミサ)は1779年4月4日、5日のザルツブルク大聖堂での復活祭のためのミサ通常文として作曲された。完成したのは復活祭の10日ほど前であろう。なぜ「戴冠ミサ」と呼ばれるようになったかいろいろな説があるが、この曲が11年後のレオポルド2世の戴冠式の際ウィーンで演奏され、その名がヨーロッパ中に広まった、という説が正しいと考えられる。先にも述べたようにミサ通常文として創られているので、キリエ、グロリア、クレド(ニケア信条)、サンクトゥス、ベネディクトゥス、そしてアグヌス・ディの6曲からなる。
 「主日のためのヴェスペレ」は午前中に行われるミサではなく日没に行われた(もう少し詳しくいうと当時は午後3時以降という規定があった)晩課のための作品である。特記するべきは後に述べるルター派の晩課とは異なりこの作品のテキストは5曲の詩篇歌、そしてルカによる福音書の「マリアの讃歌」所謂「マニフィカート」からなっており、各曲の結尾には「父と子と聖霊に御栄えあれ」つまりグロリア・パトリが付加されていることである。
 バッハの教会音楽の中でも完成度が高く、難曲として知られている「マニフィカート」はテキストがラテン語で書かれていることから普通の日曜日の晩課のためでなく、祝日もしくは祭日のために書かれたものであることが分かる。最新の研究結果、ニ長調のマニフィカートは1733年7月2日の「マリアがエリザベートを訪問した祝日」のために創られた、と考えられている。ルター派の晩課は原則「マリアの讃歌」が主なテキストとなっており、バッハ以前の作曲家が書いたラテン語ではなくドイツ語の作品も幾つか見受けられる。現存するバッハの書いた晩課は変ホ長調のものとこの曲のみである。この事実からバッハ時代のルター派教会には規定された晩課のテキスト、メロディーが存在したと想像できる。

バッハ アルヒーフ ライプツィヒ 広報室長 高野昭夫


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