曲目解説


バッハの宗教音楽

 バッハのみならず多くの偉大なる作曲家が宗教音楽を生み出してきた。しかし、その全てが所謂キリスト教会の諸儀式の為の作品ではない。例えばバッハとほぼ同時代に活躍したゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルの「メサイア」などは劇場用の曲であった。しかし、J.S.バッハの宗教曲というとオルガンのための作品も含め、教会での諸儀式の為のものが殆どである。
 キリスト教は新約聖書に於ける十字架の死の前夜、最後の晩餐の時にイエスは「この事を後世まで記憶にとどめるように」と弟子達に言い渡し、後世、キリスト教会はこの儀式を礼拝の中で再現してきた。と同時に聖書からの言葉による礼拝も初代教会時代から発達してきた。グレゴリオ時代にはそれに加え音楽も礼拝の重要な要素として考えられ始め、所謂ミサ通常文が完成した。よく「ミサ」と言う言葉を聞くが、これは「ミサ」の最後に「ミサ、イテ、エスト」(さあ、行って述べ伝えなさい)から来ている。
 バッハが活躍したルター派の教会でも「ミサ」は重要視されていた。唯、カトリックのそれが近代までラテン語であったのと異なり、16世紀、宗教改革以降ルター派のミサは変遷を続けてきた。
 バッハのライプツィヒ時代、トーマス教会やニコライ教会では、キリエ、グロリアは祭日での礼拝ではラテン語で歌われた(キリエはギリシャ語である)と言われてきた。しかし、最新の「ライプツィヒ教会規定書によると祭日のみならす、ビショップが説教をする場合は普段の礼拝の時でもキリエ、グロリアは歌われたらしい。それ以外での礼拝の時はキリエもグロリアもドイツ語で歌われた。バッハの現存するミサ曲は4曲しかないが(ロ短調を除いて)「ライプツィヒ礼拝式文」に定旋律の曲が定められていたので作曲する必要がなかったからだと考える。4曲の所謂「小ミサ曲」と呼ばれている作品はフランツ・アントン・フォン・スポルック伯の為に作曲されたと考えられる。しかし、ライプツィヒでも演奏された可能性もないではない。
 モテットはバッハの宗教音楽の中でもよく聴かれるし演奏もされる。「モテット」は非常に説明の難しい曲である。先に述べた「ミサ」に先立ち歌われた入祭唱でもあったし、礼拝の始めに歌われた詩篇歌でもあった。また、それ以外の意味でも使われる事がある。それではバッハのモテットとは、と言うと高貴な人の為の葬儀の為の作品と多くの人は思うだろう。または、祭日礼拝の為の特別な曲とか。
 バッハ時代は、バッハより約百年前のエアハルト・ボーデンシャッツの「デュールプフォルターの花園」と呼ばれるモテット集から選曲されるのが普通だった。故に今では普通に聴く事の出来るモテットもバッハ在任当時は特別な事がなければ聴く事が出来なかった。今回演奏される「全ての異邦人よ主をあがめまつれ」、「賛美と栄光あれ」などもバッハの死後、頻繁に聴かれるようになったのである。
 さて、バッハは其の生涯のうちに300曲のカンタータを作曲した。(現存するのは200曲だが)彼のカンタータは「歌による説教」と考えて頂いて良い。大袈裟ではなく「ミサ曲ロ短調」「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」以上に重要な教会音楽である。中世以降ヨーロッパでは、今日の太陽暦と教会暦を同時に使ってきた。バッハのカンタータは教会暦に則って作曲された。本日演奏される147番のカンタータはバッハの信仰生活を裏付ける重要な作品である。最初に華々しい歌声でこう歌われる。「心と口と行いと人生をもって主を証ししろ」と。そこには「清く、正しく、美しく」などとは記されていない。これこそがバッハの信仰の基本であり、ルター派神学の本質だと私は考える。
 曲は2部に分かれているが、これは間に説教が入った事を物語っている。この作品、永い間ヴァイマール期に初期稿が成立したと考えられていたが実際に完成し、演奏されたのは、1723年7月2日のライプツィヒのニコライ教会「マリア訪問」の祝日礼拝の時である。

バッハ アルヒーフ ライプツィヒ 高野昭夫


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