曲目解説


受難曲の歴史と意義

 イエスの障害を伝える資料が、いわゆる新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの4福音書である。先の3つの福音書は、その内容が似ているので共観福音書と呼ばれヨハネと区別されている。しかし、4つに共通するのはイエスの受難と復活である。日本に於いては、キリスト教の祝日というとクリスマス(聖降誕祭)が知られているが、キリスト教国に於いてはイースター(復活際)はクリスマス以上に一年を通して最も重要な祭日である。というのもイエスの復活なしにキリスト教は成立しないからだ。同じ様に受難日つまり十字架に架けられた聖金曜日も、キリスト教徒にとって特別な日なのである。初期キリスト教時代から、聖金曜日のヴェスパ(晩祷)は必ず行われていた。晩祷と書いたが、聖金曜日のそれは、通常正午を過ぎると始まる。初期キリスト教時代から中世期までは聖職者が何人かで役割を決め、受難の部分の福音書を朗読してヴェスパが進められた。ルネサンス期に入って応唱風受難曲が成立する。しかし、あくまで聖書が台本であって、アリアや多くのコラール(讃美歌)は歌わない、シンプルな作品が多かった。宗教改革を経て、ルター派の教会では少しずつ長時間を要する受難曲が生まれて来た。しかし、地域によって様々で、1600年代中頃北ドイツではオラトリオ風受難曲が成立、中部ドイツでは応唱風受難曲が発展した形式の作品が成立して来た。中部ドイツの代表的な作品がシュッツのマタイ受難曲である。とは言え、後の受難曲程複雑かつ長時間の作品はなく、長くて1時間位の曲であった。
 ルター派教会では音楽は神からの最大の恵みの一つと考えられ、宗教改革当時から以降教会音楽(礼拝その他儀式の為の音楽)は進歩し続けた。特に1600年代後半から1700年代にかけ、中部ドイツではルター派正統派教会の中心地であり、ライプツィヒはその牙城だったと言っても過言ではない。そのライプツィヒで受難曲の最頂点に立つバッハのマタイ受難曲が生まれたのは受難曲の長い歴史からすれば当然の事であったかもしれない。バッハはその生涯にマタイ、マルコ、ヨハネの3つの受難曲を残した。ルカ受難曲も作曲した、と言われているが定かではない。またマルコ受難曲の総譜は現存していない。我々が現在、耳にする事が出来る受難曲はマタイとヨハネの2曲だけである。
 さて、本日演奏されるマタイ受難曲であるが、この曲はバッハの教会音楽を代表する作品であると同時に教会音楽史上最高の作品の一つである、と言っても良いだろう。しかしその成立時期には多くの研究報告がある。1829年3月11日にベルリンのジングアカデミーでバッハの死後80年を経て、若きメンデルスゾーンの指揮でバッハのマタイ受難曲が再演されたのが、バッハ復活に於いて決定的な役割を果たした事は周知の事実である。この時のプログラムノートの筆者のツェルターはマタイ受難曲の初演が1729年の聖金曜日、トーマス教会にてと記した。だが、今世紀になり、バッハ研究が進んで1727年4月11日の聖金曜日に演奏されたのが初期稿だと言う報告が出て、現在の形になったのは、1736年であろうという説が、今の所決定的になっている。しかし、ある研究者はヴァイマール期にもうマタイの基礎になるいわゆるヴァイマール受難曲が成立していたと言う研究報告を出しているが定かではない。1727年の初期稿と今日親しまれている1736年改定稿にはそれ程大きな差は無い。敢えて記すと前半終了のコラールの異いと、第35曲(旧版41曲)目の様な通奏低音と共に奏でる楽器が、リュートであったかヴィオラ・ダ・ガンバであったかと言う様な所である。ちなみに1736年の改定稿の時に、何故ヴィオラ・ダ・ガンバになったか、色々な意見があるが、偶然その頃ケーテン時代にバッハが親しくしていた、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者のアーベルがライプツィヒを訪れていたからと言う、何とも単純、しかし真実味のある説がある。私見だが、バッハならやりそうな事である。
 さてマタイ受難曲について語るときりが無いし紙面の都合もあるので、そろそろ切り上げなければならないのであるが、最後に重要な事を一つ記しておきたい。先にも述べた様に、この作品は長い歴史を経て作曲されるべくして成った曲である。しかし、アリアの歌詞(作詞家はバッハの友人ピカンダーである)から、当時の神学思想をかいま見る事が出来るのだ。その代表的なアリアが第42(旧版51)曲目のイスカリオテのユダ、つまりイエスを売ったユダのアリアである。ユダはイエスを売った裏切り者、として教会史上も悪人としてとらえられて来た。しかし、後悔して涙するユダをデーマにしたこのアリアを聴くと、罪を犯し、懺悔後悔したユダが神にどう受け入れられたか、聴衆の方々にはわかるであろう。そう、許し、導かれたのである。イエスを売ったユダこそ、我々であり、その罪を許すためにイエス自身が最後のいけにえとなり、十字架に架かり、陰府に下り、光なきところに光が来て、新約、新しい契約が神と人の間に結ばれたのだから。受難曲は受難曲のみでは成立しない。喜びに輝くイエスの復活が来て、歓喜の合唱で終わるのである。

バッハ アルヒーフ ライプツィヒ 高野昭夫


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